横浜市戸塚区平戸町の平戸白旗神社のホームページです

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・2022年9月18日(日)例大祭後14:00から、御神宝の御開帳を三年ぶりに開催します。

神社名 白旗神社(しらはた じんじゃ)

鎮座地 横浜市戸塚区平戸町302番地

御祭神 源頼朝命(みなもと よりとも のみこと)

例祭日 9月18日(宵宮祭 9月17日)

御祭神:源頼朝命

源頼朝公

 鎌倉幕府の創立者。久安三年(1147)源義朝の三男として出生し、平治の乱の後に捕らえられて伊豆にながされた。

 1180年平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の戦いに敗れ海路安房に逃れた。その後、房総、武蔵の武士を束ねて相模に入り、鎌倉に本拠を定めた。朝廷から正式に東国の支配権の許しを得、平氏を壇ノ浦に全滅させ、反幕府勢力を一掃して鎌倉幕府を成立させた。正治元年(1199)正月十三日、病のため逝去。御年五十三歳。平成十二年(1999) 源頼朝公没後八〇〇年の記念行事が鎌倉を中心に全国で行われた。

由緒

 当神社に隣接する東福寺に寺宝として一通の古文書が収納されています。その所蔵文書は明和六年(1769)の送り状で次のように書かれています。

頼朝公御遺髪の送り状 明和6年(1769年):東福寺蔵

鎌倉郡永谷村永谷山東福寺鎮守白旗大明神は
乾元元年(1302)九月九日
鶴岡相承院先住元智「智円の前名」の時の勘請なり
今般右大将家御鬢髪三筋相送候
此度東福禅寺慶厳の希望に因る者也
明和六年(1769)十月十四日
鶴岡相承院 密信 花押
東福禅寺 慶岩和尚

そして、いまひとつ二重の桐箱があり、なかに縦7センチ、横2センチの金襴の袋が収められており、表書きには「頼朝公遺髪三筋」と記されています。

ご神宝・頼朝公遺髪:東福寺蔵

 白旗大明神「白旗神社」は東福寺と永谷村の鎮守として智円がこの地に勧請(神仏の分霊を請じ迎え祭ること)したのは、鎌倉時代の末期、頼朝公が逝去されてより約百年後のことでした。

 相承院は、鶴岡八幡宮寺の本尊につかえて天下の安穏を祈り、社役をつとめる二五坊のなかでも有力な寺院で、応永三十三年(1427)には、頼朝公の持仏堂で、のち頼朝公の遺髪を安置する法華堂を管理し、祈祷の役に任じました。

 白旗神社を勧請した智円(1285〜1366)は相承院七世として三十四年間奉供しており、慶巌和尚の懇請によって二十四世密信が頼朝公の御遺髪を白旗大明神の御神体として送ることができたのは、法華堂の管理をまかされていたことによるものと考えられます。

「新編相模風土記稿」には「遺髪一屯、頼朝公逝去の日、蓬髪して持仏堂に納めしと云う。白毛少しく交じりてあり」と記されています。

紋所 笹りんどう

 当神社の紋所は「笹りんどう」であり源氏の紋所でもあります。神社名の白旗は源氏の旗の意で、平氏が赤旗を用いたのに対しての呼称なのです。平家物語に「まず旗さしを先立てて白旗をさしあげたらば、平家これをみて、あはや源氏の先陣はむかふたるは」などと記されています。

手水舎

手水舎

 手水舎は石造りで裏に「嘉永七年(1854)十月奉納 村中安全」と刻まれています。この前年にはぺリーが浦賀に入港し、坂本龍馬も江戸から黒船を見物に来たと記録にあり、この数年後には桜田門外の変が起こる世情が騒然としている時代に手水鉢を奉納できたのは維新の動きがこの地域に直接影響していなかったという事なのでしょうか。

御神木

御神木

鳥居をくぐり左側に聳える御神木は樹齢三百余年のケヤキで横浜市の名木古木に指定されております。洞を含んだ木の形状が犬の顔にも見えることから、安産のパワースポットと云われております。拝んで御神徳を戴いてください。

鎌倉古道

 神社の正面に向かって左右に細い道があります。左は環状二号線に、右は東福寺へ向かう短い道ですがこれが鎌倉古道です。いまは移設されて境内の片隅におかれている道祖神に「左ぐみやじ右かまくら」と記された石塔があります。機会がありましたら佇んでみては如何でしょうか。

 当地は昭和十四年に横浜市に編入されるまでは鎌倉郡川上村字平戸でした。鎌倉との縁の深さが窺えます。

近代

 明治元年(1868)三月、神仏判然令が出され、ついで明治四年(1871)五月、「神社はすべて国家の宗祀である」として国の管理下に集約されました。このとき白旗神社は東福寺の手を離れ神社として独立したものと思われます。

 現在の社殿は昭和七年(1932)四月十日に造営されました。総坪数二十三坪七号七勺(78.44㎡)、総工費四千八百七十一円十八銭と記録にとどめています。

 平成十四年(2002)白旗神社は創建以来七百年の歴史を刻みました。

 令和元年(2019)八月には神輿庫および神札授与所を新設しました。

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