今年の干支の辰にちなみ、中井町の曹洞宗井寶山(せいほうざん)米倉寺(べいそうじ)(中井町井ノ口906)を訪れ、本堂の彫刻「阿吽の竜」の伝説を聞いた。この竜の「水を飲みに出る」という言い伝えは中井の昔ばなしにもなっているが、制作年など詳細は不明のままだという。
米倉寺は1532年に開創した寺院。江戸時代末期には寺子屋を兼ね、現在の井ノ口小学校の前身である「誠成館」を寺の中に設けていた。学校の独立後は本堂を一部改造して井ノ口村役場が置かれるなど、地域に深くかかわってきた。
彫り師甚五郎が制作
本堂に佇むのは高さおよそ2m50cmほどの、本尊に向かって右側の口を開けた「阿の竜」と左側の口を閉じた「吽の竜」。江戸時代前期に飛騨(岐阜県)で活躍し、竜の彫刻の名工として名をはせたと伝わる甚五郎の作品だ。甚五郎が江戸に向かう途中で試作品として、米倉寺で竜を彫ったとされている。「誰かに頼まれてこの形にしたのか、『左巻き、右巻きどちらも彫ることができる』という技術を披露したかったのか、理由は分かっていない」と同寺住職。甚五郎は阿吽の竜を完成させた後に、利き腕の右腕を失ったが左腕一本で寛永寺(東京都・上野)に竜を彫り上げたとされている。しかし「甚五郎」という人物が実在したかは定かではなく、伝承にとどまっている。
「葛川に竜」の伝説広まる
甚五郎が彫り上げた寛永寺の竜はその迫力ある姿から「上野の不忍池(しのばずのいけ)で泳いでいた」と噂が立つように。それが中井町にも伝わり、「米倉寺の竜も動き出すのでは」と噂されるようになった。『かながわのむかしばなし50選』(1983年、神奈川県教育庁文化財保護課 編著)に伝説が収録されている。
伝説によると米倉寺から葛川にかけて田畑が荒らされ、その後、夜に水を飲みに来た竜を住民が目撃。他の住民たちが後日、寺の竜の彫刻を見ると、身体が濡れ泥がついていた。住民らは目撃談を信じ、水を飲みに出られないようにと、竜の目にくぎを打ち、体を切り刻んだという。
本堂は普段扉が閉まっているが、「寺に来た際に一言声をかけていただければご案内します」と住職。
問い合わせは米倉寺【電話】0465・81・0181。