突然の逝去後に発見された荏原庸公さんの傑作群
没後発見された荏原さんの魂で描かれた色彩の群は多くのアート関係者の心を動かし、遺作集として2024年に『荏原庸公 絵画作品』(誠文堂新光社)を刊行。同年銀座での絵画展を経て、今回初めて生まれ育った川崎市で開催。1月6日(火)より、川崎区にある「アートガーデンかわさき」で『荏原庸公 絵画展』をご覧いただくにあたり、荏原さんの人生の軌跡を紹介していきます。

1976年に川崎市で生まれた荏原 庸公(えばら ようこう)さんは、2023年10月、46歳で静かにこの世を去りました。生前はテキスタイルデザイナーやフランス語翻訳家として活躍していましたが、彼の真の才能は、逝去後に遺族によって発見された100点ほどの絵画作品やイラストにありました。28歳でHIVに感染した荏原さんは、パリ留学から帰国後もテキスタイルデザインや仏語翻訳の仕事をしながら絵画を制作。薬の副作用に苦しみながら闘病生活のなかで描いた作品の数点を除き、まわりに公開することはありませんでした。
遺書の代わりに部屋に残されていたのは、色彩あふれる数々の作品でした。母のスミ子さんはそこで初めて庸公さんが絵画を制作していたことを知ります。スミ子さんの愛によって世のなかに公表された傑作群は、多くのアート関係者の心を動かし、作品集や絵画展へと辿り着きました。

誠文堂新光社より、日本語版と英仏語版の2冊を刊行
精神探究を求めチベットに、創作の原点パリへ
学生時代に旋律を触れたのは、密教の世界
荏原さんの芸術の根源は精神世界への深い関心にありました。チベット仏教や真言密教に惹かれ、中学時代から多くの専門書を読み、後に勉強会なども参加。探究心は留まることなく、22歳でチベットを訪れ、チベット仏教の聖地となる寺院を訪れるなど、造詣を深めました。この体験が荏原さんの作品にみられる抽象的な表現や、色彩が持つ精神性へ投影されたのでしょう。また晩年は仏経へも造詣を深め、高野山や川崎大師平間寺(真言密教)などを信仰。曼荼羅を思わせる作品もみられ、精神世界への深い探究が大きな影響を与えているようです。

創作の世界を広げたパリでの日々
ファッションにも興味があった荏原さんは、服飾デザインやテキスタイルデザイン分野の職業へ興味を持ち、文化学院高等科と大塚テキスタイルデザイン専門学校を卒業。ファッションへの探究も求め、24歳のときにフランスに渡り、パリの服飾学校「ステュディオ・ベルソー」に入学。仏語が堪能になり、在仏中にパリで開催された日本のセレクトショップイベントのコーディネーターも務めました。

荏原庸公さん。川崎市にある多摩川の河川敷にて。
密教とパリが生んだ独特の色彩
確かなデッサン力と開花した色彩感覚
現地で描かれた作品からは確かなデッサン力が伺える作品や1つのパターン生地から構想したラフスケッチなど、パリで開花した色彩センスが卓越した作品も残されています。このころは人物をデフォルメした作品から水彩をメインにサインペンを使用し、ラメなどのグリッターを活用した2種類以上の異なる素材や技法の組み合わせが特徴です。前述の1枚目の作品のように人物の髪や背景も生地のようタイル状に表現するなど、無機質な形のなかに鮮やかさな色彩で構築された作品も多く、唯一無二の感性がここからも伺えます。

わずかな光のなかで紡がれた色彩の世界
晩年の荏原さんは、薬の副作用から音や光に過敏となり、食欲減退から歩くことさえも困難でした。自室で多くの時間を過ごしていましたが、死期を悟ったように最後は小さなスケッチブックにデッサンを遺していました。

晩年を過ごした自室兼アトリエ。
しかし繊細な感性は絶えることなく、日中カーテンから漏れるわずかな光のなかで赤と音で描かれた母の肖像画は感謝を示した遺書なのかもしれません。このころの作品は、動けないからこそ躍動間のある線。多くの時間を暗闇で過ごしたからこそ、荏原さんの目には、世界がより色彩豊かに映っており、キャンバスのなかに光を宿していたと推察もできます。

母の肖像。最晩年の作品。
精神世界の探究の果てに「生きること」の美しさや痛みとたたかいながらも筆を握り続け、苦悩と希望を渦巻くような痕跡が色濃く遺された芸術作品。2026年1月6日(火)から川崎駅中央東口より徒歩3分にある「アートガーデンかわさき」で開催される、色彩豊かなで感情が綴られた荏原庸公さんの傑作群をぜひ会場で触れてみてください。
荏原庸公さんの作品集 https://www.seibundo-shinkosha.net/book/art/90314/
荏原庸公さんのInstagram https://www.instagram.com/yokoebara/#
『荏原庸公 絵画展』 – Yoko Ebara Art Exhibition2026 –









