今から76年前の昭和20(1945)年4月15日に、川崎空襲があった。宮前区にも焼夷弾が投下され多くの住人が被災し、亡くなった人もいた。野川神明社の慰霊碑や書籍が、悲しい過去を今に伝えている。
川崎空襲は200機余のB29が押し寄せ、焼夷弾など1110トンが投下され、市街地全体と南部線沿いの工場が壊滅的打撃を受けた。現宮崎中学周辺に東部62部隊があった宮前区には野川に空襲があり、7人が亡くなっている。
石に刻む悲劇
野川神明社には、戦没者慰霊碑が建立されている。空襲では9軒が消失。慰霊碑には亡くなった7人の名と享年が刻まれており、16歳から3歳までの幼い命が奪われた事実を伝えている。
野川からは日清・日露や大東亜戦争に、200余人が出征し43人が亡くなった。ソロモン諸島やマニラなど、命を散らした戦地も碑に刻まれており、そのほとんどが20代前半の若者だ。碑の最後には「国の礎となられた多くの戦没者の事を忘れる事無く、諸英霊が心安らかに眠り、恒久なる平和を祈り、後世に伝える」と刻まれている。
2020年コロナの影響で開催できなかった、4年に一度行われる野川戦没者慰霊祭が神明社で5月に延期され行われる予定。
子6人が目の前で
川崎市が発行した『川崎空襲・戦災の記憶 空襲・被災体験記編』に、野川空襲の体験記が記されている。
中でも中根寅吉さんの寄せた「わが子六人焼死」には、当日の様子がセンセーショナルに書かれている。大群で押し寄せた敵機が自宅に束で焼夷弾を落とすと、当時16から3歳までの子ども7人を避難させた防空壕に直撃。唯一12歳の息子が飛び出して命を取り留めた。「子供は大きいのが小さい子供をだきかかえるようにして入口に重なって死んでおりました。丸焼けで、近所から箱を借りて二人ずつ入れ、三つの箱を目の前にした時は、何の言葉もでませんでした」
『川崎空襲・戦災の記憶』は図書館で閲覧することができる。