戦時中にナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救済するなど多大な功績を残した旧陸軍中将の樋口季一郎。「東洋のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝は有名だが、樋口の名を知る人は少ない。そんな樋口の功績に光をあてようと元平塚市長の吉野稜威雄氏ら有志が顕彰碑の建立を計画。円覚寺(鎌倉)の龍隠庵に顕彰碑が建てられた。樋口の功績とともに、2023年5月21日に誕生した新たな歴史スポットを紹介する。
【目次】
◎樋口季一郎とは
◎鎌倉の円覚寺龍隠庵に顕彰碑
◎厳かに除幕式
◎関係者の挨拶
吉野稜威雄(樋口季一郎顕彰会共同代表、元平塚市長)
島村良行(樋口季一郎顕彰会共同代表)
里見脩(樋口季一郎顕彰会共同代表)
玉村邦夫(元三井住友海上特別顧問)
早坂隆(作家・『指揮官の決断』著者)
清水剛(元陸上自衛隊二等陸佐)
樋口季一郎とは
樋口季一郎は1888年(明治21年)、兵庫県淡路島に生まれた。陸軍士官学校(21期)、陸軍大学校(第30期)卒のエリート。東京外大でロシア語を学び、ソ連に精通した専門家だった。さらに情報を重視した情報将校としても活躍。とくに暗号の作成技術の向上に力を注いだことも高く評価されている。円覚寺龍隠庵の顕彰碑のとなりには樋口の功績を記す石碑も建てられており、そこに刻まれている3つの偉業を紹介したい。
3つの偉業
【救国】昭和二十年八月十八日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に侵攻したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。
【キスカ島救出作戦】昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。
【ユダヤ難民の救済】昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。
鎌倉の円覚寺龍隠庵に顕彰碑
樋口季一郎に感銘をうけた元平塚市長の吉野稜威雄氏、日本会議湘南西支部長の島村吉行氏、元大妻女子大学教授の里見脩氏ら3人が中心となり、樋口の功績を多くの人に語り伝えようと顕彰碑の建立を計画。鎌倉の円覚寺龍隠庵の太田周文住職に相談したところ龍隠庵への建立を快く受けてくれたという。龍隠庵は円覚寺の塔頭で、円覚寺の中央の仏殿の左手をのぼったところにある。
顕彰碑は日本が誇る高級石材の庵治石でつくられた。樋口の三つの功績を記した石碑には、太田住職による著語「八風吹不動」が彫られている。「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む禅語。太田住職は「樋口さんは日本軍という組織にいた人。立場上、様々なことを上の方から言われたでしょうが、『人命を守る』という信念を貫いた樋口さんの姿勢を表したかった」と話している。
厳かに除幕式
2023年5月21日に執り行われた樋口季一郎顕彰碑の除幕式には来賓や関係者ら約100人が参列。龍隠庵の太田周文住職らの読経、関係者による除幕ののち、献花が行われた。
【関係者の挨拶】
「樋口中将から学ぶもの」吉野稜威雄(樋口季一郎顕彰会共同代表、元平塚市長)
令和二年十二月、鎌倉に住む友人、里見脩氏から連絡があり、大磯の日蓮宗の寺、妙大寺に案内して欲しいと言う。「樋口季一郎陸軍中将の墓を訪れたい」とのことでした。妙大寺は大磯を海水浴場に指定した軍医総監、松本順の墓があることで知られています。寺域に入ると街なかのこと故か墓地はこざっぱりしていて、樋口中将の墓は容易に見いだすことが出来ました。すぐ近くには樋口中将を主人公とした『流氷の海』を著した相良俊輔氏、また福田恒存氏の墓もあり、静かな落ち着いた雰囲気で心地良いものでした。
数目後に里見氏から電話で、「樋口中将の長女が平塚に住んでいた」と言う。名前は玉村姓。ひょっとしたら高校の同級生、玉村君の親族では?その同級生、玉村さんは既に亡くなられておりましたが、弟さんがたまたま、家内の同級生でしたので問い合わせてみますと、「樋口季一郎は自分の祖父です。」とおっしゃる。その確認が出来た瞬間、樋口中将はとても身近な存在になりました。実は彼らの父君、玉村一雄さんは平塚市民病院の初代院長さんで市民生活に大きな貢献をされた方でもあり、平塚とも深いご縁のある方なのです。
私は早速、『樋口季一郎の遺訓』(樋口隆一著)、『指揮官の決断』(早坂隆著)など次々と樋口中将関係の本を読み、その功績に強い感銘を受けました。陸軍軍人の中にもこのような柔軟な発想、固定観念に囚われない思考が出来、文化や歴史にも造詣が深い人が居たのだ。それは大きな驚きでした。そして次に浮かんだのは、何故このような国土を他国の侵略から守った偉大な軍人の功績が知られていないのか、伝えられてこなかったのか、という強い疑問でした。北海道の少なくとも半分を領有しようというソ連の目論みを阻止した実績は大きい。樋口中将がいなかったらわが国は間違いなく分断されていたでしょう。また終戦後にも関わらず、侵略された北海道は蹂躙され、どれだけ多くの方達が戦火の犠牲になったことでしょうか。
年が明けて島村良行氏から、これは他人ごとでは無い、我々が自分達の課題として顕彰碑を建てようという提案があり、動き出しました。なんと一年後にはロシアによるウクライナ侵攻が突発的に始まりました。この現実は平和であり続けることがいかに困難なことかを改めて私たち日本国民に教えてくれたと思います。
鎌倉の円覚寺は執権、北条時宗公が元冠の役で戦死した日本の武士のみならず蒙古軍の戦死者も併せて慰霊するために建てられた寺です。その中の塔頭、龍隠庵に樋口中将を顕彰する石碑が建立できる運びになったことは私たちにとって誇りであり、大変な感激を覚えております。私たち有志一同の志を理解し、惜しまずに多大な協力をして頂いた太田周文和尚に心からの感謝、お礼を申し上げます。
作業開始以来二年有余、様々な課題が持ち上がりましたがその都度、不思議に幸運に恵まれ、解決されていったのは人の力を超える大きな後押しがあったとしか考えられないものがあります。またこの事業を進めて行く過程で共に行動をした仲間が今までは知らなかつた面で色々と繋がりがあることを知り縁の深さに驚いたものでした。私たちは大きな力に見守られている。それが実感でした。
お蔭様で皆様方のご出席を得てここに除幕式を執り行うことがでました。皆様の暖かいご理解、ご協力に感謝いたします。
今日は落成のお祝いの日ですが新たな出発の日でもあります。樋口中将から学ぶものは多いと思います。二一世紀、その難しい時代を乗り越えるためには借り物の考えから脱却して自らが情報に鋭敏であり、自らが分析をして、自らが考えをまとめて行く。そういう国民
でありたいと思います。その第一歩が始まります。
「偉業に対する敬意」島村良行(樋口季一郎顕彰会共同代表)
自虐史観の教育に依り、戦前の立派な方々が、このままでは歴史から抹殺されてしまうと危倶していたところ、二年半ほど前に、吉野稜威雄氏から電話があり、「樋口季一郎陸軍中将を知っているか」と聞かれました。私は「勿論、よく知っています。だが遺憾ながら、多くの人は知らないと思います」と答えました。
これを契機として、「樋口中将の偉業を広く知らしむべきだ」という思いが募り、四元義大、相原敏貴、石本三郎、今村佳弘、相原光治、相原洋二、里見脩氏らとの間で協議したところ、「樋口季一郎之碑」建立の声が高まりました。円覚寺塔頭・龍隠庵の太田周文和尚様の並々ならぬ御厚意により、本日ここに碑建設が実現し、感慨無量のものがあります。碑を通して、多くの方が樋口中将の偉業を知り、感謝の誠を捧げることを切望して止みません。
同時に、キスカ島作戦の指揮官・木村昌福海軍中将、ユダヤ難民救済に尽力し戦後シベリアに抑留され亡くなられた安江仙弘陸軍大佐、占守島の戦いで壮烈な戦死を遂げた「戦車隊の神様」池田末男陸軍少将ら、樋口中将と共に偉業を果たした方々に対して深く敬意を表するものです。
「樋口季一郎之碑縁起」里見脩(樋口季一郎顕彰会共同代表)
令和二年十二月、一同うち揃い、大磯の名刹・妙大寺に存する樋口季一郎陸軍中将の墓所へ詣でたことから、始まった。その後、有志の間で樋口中将を顕彰する碑建立の議が自然に湧き挙がり、それを受けた吉野稜威雄氏が、鎌倉の古刹・円覚寺塔頭・龍隠庵住職の太田周文和尚に諮り、太田和尚が快諾し、以来二年余の時を経て、落成に至ったのが、樋口季一郎之碑建立の大筋の流れである。
樋口季一郎之碑は、龍隠庵の高台の聖地に、平和観音菩薩坐像と隣接して建っている。座像が安置されたのは、以下の経緯である。十数年前、東京在住の老婦人が龍隠庵を訪れて、戦没者の供養を発願した。これに応じた太田和尚は、本堂前に枝垂れ桜を植樹すると共に、平和観音菩薩坐像の制作を、とげぬき地蔵尊で名高い東京・巣鴨の名刹・高岩寺の、洗い観音菩薩立像の制作者である八柳尚樹仏師に依頼した。仏師は坐像を完成させた直後に急逝、この座像が名工の遺作となった。
樋口季一郎之碑が円覚寺に建立されたのには、以下の因縁がある。二千有余年の日本国の歴史において、固有の領土が外国勢力により侵攻されたのは、第一に鎌倉時代の蒙古軍の元寇が挙げられる。二度にわたり侵攻されたものの、執権北条時宗公の総指揮で、これを敢然として撃退した。その後、時宗公の命に依り、戦没した日本の武士のみならず蒙古兵を供養するため、弘安五(一二八二)年に円覚寺が開山された。第二は昭和の大東亜戦争である。日清、日露戦争の戦場は中国で、大東亜戦争も多くは太平洋、東南アジアが戦場となった。その中で、固有の領土が戦場となったのは、沖縄、硫黄島そして占守島である。沖縄、硫黄島での米軍を相手とした戦いは武運拙く敗れたが、終戦合意にも関わらず占守島に侵攻したソ連軍に対しては、樋口中将の指揮の下奮戦し、北海道占領という彼等の野望を粉砕した。時宗公と樋口中将は、祖国防衛の任を見事に果たした指揮官としての偉業で共通する。
樋口季一郎之碑建立の作業中に、ウクライナ戦争が勃発した。祖国の独立を護持するため、ロシア軍を相手に命を賭して戦うウクライナ国民の姿は、「平和は創り、護ることで初めて成る」という現実を教えている。
樋口季一郎之碑を通して、樋口中将の偉業は無論だが、同時に平和の意義や、日本国の歴史や現状に思いを致して頂ければ、幸いに存ずる次第である。
「樋口季一郎と湘南」玉村邦夫(元三井住友海上特別顧問)
「玉村さん?あなたのお祖父さんは樋口中将ですか?」吉野さんから電話をいただいたのが、令和二年の十二月でした。それから、僅か二年半で今日の日を迎えました。私の父は、慶応医学部、陸軍軍医学校卒の軍医で初代平塚市民病院長の玉村一雄です。母は樋口季一郎の長女美智子で、昭和一二年、縁あって結ばれました。戦後、祖父は祖母の実家を頼って、宮崎県に隠棲していましたが、次男・季徳の死去を契機に、母の要望もあり、大磯町に住むことになりました。
昭和三五年四月から三九年の秋まで四年半の大磯住まいでした。祖父は大磯の山と海が大いに気に入り、散歩の途中立ち寄った妙大寺の住職と意気投合し、そこに墓を造るまでになったのです。
私が中学一年から高校二年の時で、大磯のボーイスカウトの隊員だったこともあり、毎週末の訓練の後、制服姿で祖父の家に寄り、将棋の相手をして、夕食を食べて帰るのが習慣でした。
祖父の愛した湘南の地に、このような立派な顕彰碑が建つとは、夢のような出来事です。皆さま、本当にありがとうございました。
「記念碑に想う」早坂隆(作家・『指揮官の決断』著者)
私が樋口季一郎陸軍中将の評伝(ルポルタージュ)を書きたいと最初に思ったのは、平成一九年頃だったと記憶する。当時、樋口の名前を知る者は一般的にはほとんどおらず、かつての名指揮官の存在は昭和史の中に埋もれているような状態であった。私はそのような状況をなんとかしたいと思った。
それから十五年以上が経ち、記念碑の建立という良き報を知るに至り、私は大きな喜びと感慨に包まれている。同時に、不思議な感覚と驚きもよぎる。
このような所感をここにしたためたのは、私に先見性があったなどと言いたいからでは決してない。私が改めて思うのは、当時の編集部はよくぞ、私(小生もまだまだ駆け出しの頃であった)などが持ちかけた謎の多い企画に「ゴーサイン」を出したな、ということである。
多くの方々の思いや「決断」があって、今目の日があると感じる次第である。
「落成式に寄せて」清水剛(元陸上自衛隊二等陸佐)
樋口季一郎之碑の落成式、真におめでとうございます。私の様な若輩者に挨拶の機会を頂き身の引き締まる思いで有ります。本日の落成式にこぎ着けた事は円覚寺龍隠庵太田住職や吉野様はじめ関係者ご一同の深いご理解とご協力の基、本日ご参列皆様の熱意が成し得た賜物であると思料致します。ここに自衛隊OBとして衷心より御礼申し上げます共に感謝申し上げます。
太田住職並びに吉野様ら関係者ご一同とは昨年十一月八日夜、四百余年前に織田信長も観たであろう「皆既月食・天王星食」を一緒に観覧しました。食事を取りながら皆様の石碑建立にかける思い等に接し、胸が熱くなりました。と同時に元幹部自衛官として恥ずかしい思いをしたのも事実です。
「恥ずかしい思い」と申すのは、本来は軍人としての大先輩の偉業は自衛官OB・或いは現職自衛官が中心となり声を上げるのが筋と思ったからに他なりません。関係者の皆様の熱い思いを感じ取り、且つ月食の想いを引きずりながら帰路に着きました。
昨年以降、私なりに防衛省・自衛隊に皆様のご苦労をお話しし、協力をお願いしましたが旧日本軍の伝統の全てを捨てて発足した陸上自衛隊は、樋口中将と申しましても全くピンと来ませんでした。
本来であれば、この席には陸上幕僚長・東部方面総監・第一師団長等が参列しても何ら不思議では有りません。その位、目本国やイスラエル国に名を遺した偉大な将軍であります。
この石碑を建立したことにより、樋口中将の名が永久に語り継がれるばかりでなく、日本人としての誇りを後世に繋げられると思料致します。そういう観点で見れば「皆様の行動は後世、日本国史に残る」と申しましても過言では有りません。
終わりに、記念するべき石碑を今後もあらゆる機会に多方面に紹介し広く広めることを、お約束いたしましてご挨拶に代えさせて頂きます。本日はおめでとうございました。
- 樋口季一郎直系の孫である、樋口隆一氏も除幕式に参列。明治学院大学名誉教授で、著書に『樋口季一郎の遺訓』がある。