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<川崎市>戦後80年・戦禍の記憶⑥「14歳で見た地獄、歌に刻み」宮前区在住 松本 正さん(94)

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<川崎市>戦後80年・戦禍の記憶⑥「14歳で見た地獄、歌に刻み」宮前区在住 松本 正さん(94)
長崎での被爆の経験を語った松本さん

長崎の自宅で被爆

 14歳の夏、人生は一変した。1945年8月9日、長崎。旧制長崎中学校の2年生だった松本さんは、爆心地から2・8Km離れた自宅で被爆した。

 その日は、朝から空襲警報が鳴り響き、空爆の恐れのある勤労奉仕先の工場から自宅に戻っていた矢先だった。午前11時2分。突如、目の前が「太陽が爆発したかと思った」ほどの巨大な白い閃光(せんこう)で真っ白になった。夢中で庭先の防空壕へ駆け込もうとした瞬間、すさまじい爆風で家屋が倒壊。下敷きになったが這い出し、九死に一生を得た。

 被爆から2日後、体調を崩し療養のため離れて暮らしていた姉と母のもとへ向かった。市外の駅を目指したが、道に迷い、爆心地近くに足を踏み入れてしまう。そこで目の当たりにしたのは、想像を絶する地獄絵図だった。

 「『水、水を』とうめく人々、『助けて』と訴える声。何もできず、ただ『ごめんね』と心の中で繰り返しながら通り抜けるしかなかった」。

 数日後、家族との再会を果たし無事を喜び合った。それもつかの間、助かった人々が放射線の影響で次々と亡くなっていった。松本さんの友人や大切な人々も即死か、助かっても程なくして命を落とした。自身も髪の毛が抜け、下痢が続き、「死ぬのだろうか」と見えない恐怖におびえ続けた。「原子爆弾は、未曽有の破壊力と放射能の危険を伴う殺りく兵器。長期間にわたり人間の体をむしばみ、未来の命までを奪う」

「私が死ぬ時、友人は2度死ぬ」

 当時の無力感に、今でもさいなまれている松本さんは、五行歌という表現方法に、被爆体験と原爆の恐ろしさを託すようになった。

《白熱の閃光と 凄まじい爆風 瞬時にして港街は 阿鼻叫喚の 灼熱地獄となった》

《水 水 水 熱か 熱か 学生さん 小便でもよか かけてくれんね》

《化け物だ 幽霊だ 人間の姿を失った 異様な物体だ 少年が見た原爆地獄》

 「人は2度死ぬのだと思う」と松本さんはいう。「この悲劇を二度と繰り返さぬよう語り続ける限り、友は私の中で生きている。私が死ぬときが、彼らの2度目の死なのです。生きている限り機会があれば語り続けたい」。94歳の今でも、強い思いを持ち続ける。

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2025年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。

住所

神奈川県川崎市宮前区

公開日:2025-06-27

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