東逗子駅開業70周年実行委員会発足式の模様をお届け

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東逗子駅開業70周年実行委員会発足式が4月3日、逗子市商工会館で開かれました。

ここでは記者が特に印象的だったお二人のお話をご紹介します。

顧問に就任した東逗子駅を管理する曽我圭一JR逗子駅長


「逗子駅に着任して半年になるが、振り返ると地域の皆様が駅前ロータリーの花壇を手入れしたり、ボランティアの方が周辺を掃除していただき、皆様に支えられていると実感している。

4月1日に構内に横断幕掲げると、『本当におめでとうございます』と当時の様子を振り返りながら声を掛けられた。また、20代の若い方がお花持ってきてくださり、『おめでとう』と言っていただいた。地域の皆様に支えられており、我が街の駅というふうに思っていただいていると感じる出来事で、管理している身として嬉しく思っている。

東逗子らしさ、手作り感ある親近感持ってもらえるようなイベントになるよう、お手伝いできれば」

相談役に就任した当時を知る「生き証人」の三田村鳳治さん


「3月31日に満100才になった。当時沼間に小学校はなく、逗子の小学校まで歩いて大変だった。当時はみな、着物。何かあると袴をはいて歩いた。まわりに洋服を着る人が増え、父に頼んで買ってもらって嬉しかったことを覚えている。

出身を聞かれ逗子と言うと『良い所だね』と言われるが、沼間と伝えると『ああ沼間ですか、、』という反応になる。何とか街にしたいと思っていた。当時は電気がないので、提灯屋さんが現在の沼間会館の場所にあって忙しくしていた。夜は提灯を持って外に出なくてはならなかった時代。

川や沼でよく遊んだ。ウサギやカエルを捕まえた。赤ガエルは一番美味しくて、皮を剥いて動いているまま焼いて食べた。良い所だったが、残念ながら戦争がはじまり、横須賀市になり、私自身、昭和18年10月21日学徒出陣した。沖縄へ向かおうとしていた時、上官から『三田村、死ぬならいつでも死ねるぞ。これからお前たち若いものがこれからの日本をどうするんだ』。その一言で私は助かっちゃった。飛行機が行っちゃった」

「戦争が終わり、残務整理をし、家に帰ると食べるものがない。買い出しのためリュック背負って長後まで芋を買いに行った。保育園を作ったが女の子の頭はシラミだらけ。それを毎日取るのが私の役割だった。お昼には弁当がないからみんな家に帰った。その後、寄付などもらってなんとかしのいだ。

自分はお坊さんだが、池子の教会に行って、お土産にチョコレートをもらうために子ども達を連れて行った。子ども達は嬉しそうだった。沼間は何もなかった。『何もないここに街を作ろう、それには駅だ』。そう考えて、街が発展していく様を演劇でやった。それがはじまりで、住民大会を開き、「沼間駅建設委員会」が発足した。

食べるお金もないような時代、お金を集めるために何回も何回も集まった。そして今でも忘れません、4月23日に住民大会で集まり、建設実行委員会ができた。北条さんが委員長に、私と葉山くんが副委員長に就任した。

当時はJRではなく国鉄。国会を通らないと何もできない。だから新橋へよく行った。頭を下げ、交渉した。駅からの距離で1~4に区分けし、世話人を立ててお金集めに周った」

「どうしても70周年をやりたかったのは、今みんな死んじゃっていないから。あんなにみんな苦労して、毎晩のごとく集まり、ああでもない、こうでもないと議論した。会計の石井さんも苦労していた。その人たちのおかげでできた。大勢の方々が協力していただいたからできた。それで今の沼間になった。

もう今はみんな亡くなったが、北条委員長、葉山副委員長、会計の石井さん、その他みんな本当に喜んでいると思います。そういう先輩たちがいたから、今日になった。それをひとつお忘れなく、これから沼間のために、今回企画してくれてありがとうございます。今日はみんな喜んでいると思います」

住所

神奈川県逗子市東逗子駅

公開日:2022-04-13

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