”あの日から”のこと
2011年3月11日、枡形在住のハープ奏者・青山恵さん(38)は、宮城県石巻市で多くを失った。一緒に住んでいた両親と祖父、曽祖母が亡くなった。生まれ育った故郷は変わり果てた姿に。自宅もハープも大津波で流された。「助かった命。両親らに顔向けできない生き方はしない。今を大切に、自分らしく生きる」。そう”あの日から”のことを語り始めた。
実家は、同市門脇町で仕出し屋を営んでいた。上野学園大学でハープを学ぶために上京。卒業後は故郷に戻り、ハープ講師として活躍していた。
あの日は姉とめい、おいが実家に遊びに来ていた。入園式の服を買おうと、めいを連れて姉と一緒に車で出掛けていた。「建物が倒壊するかもしれない」。大きな揺れが襲い、走って店を出た。立っていられない。駐車場で3人はしゃがみこんだ。揺れが収まると、おいを連れに戻るため実家へ。「津波が来るかもしれない」。4人で近くの日和山に避難した。頂上に着くと、雪が降り始めた。青山さんは「両親らもきっと逃げている、翌日には会えると思っていた」と振り返る。
石巻中学校の体育館で不安な一夜を過ごした。「続く余震、何よりも寒かった」と、眠れないまま朝を迎えた。青山さんは両親らを探すため、高校などの避難所を巡った。このとき、津波がどこまで来ていたのかは分からなかった。だが、再び日和山へ向かい、頂上から実家のある場所を見下ろすと、見たことのない故郷の姿があった。「戦争で焼け野原になったら、こんな感じなのかな」。自宅がない。町全体が流されていた。「悲しいという感情もなかった。ただただ、ぼーっと眺めていた」と青山さん。15日、県外にいた兄が車で駆け付けた。仙台市の親族宅へ。その後、青山さんは都内の親族を頼り避難した。
4人の葬式
曽祖母と父が遺体で見つかった。「顔を見ることができて良かった。ちゃんと見送れたから」。母と祖父は見つからないまま、4人の葬式が行われた。その後、2人とは遺骨で会うことになった。「どのくらいの月日が流れたか、思い出せません」
仙台市民となり、ハープ専門店の店長となった。講師や演奏活動など、ハープ普及のために奔走した。大震災という過去を見たくない。そんな気持ちで、前だけを向いて打ち込んだという。走り続けた。その結果、身体が悲鳴を上げた。
「これではいけない」
「両親に残してもらった命。健康第一で大切に生きないと。『今』の自分を愛し、心地よく、自分らしく生きよう」と生き方を変えた。仕事はフリーランスに。家族を持ちたいと、お見合いをした。結婚を機に多摩区へ移り住むことになった。
現在は、子育てと川崎市内でハープ演奏を行う日々を送る。親子で楽しめるコンサートにも力を入れている。「主人の理解もあり、自然体でやりたいことをできている。本当に恵まれた人生です」と笑顔を見せた。自身が辛い経験をしたからこそ「癒しの音色で、リラックスしてもらいたい」という思いは強い。
自然と話せるように
子育てをしているとママ友とは、親の話になる。「隠すことではない」と、自然と話せるようになったのは昨年ごろからだ。家族がいるのは当たり前ではない。失ったからこそ、多くのことに気が付いた。「だから、小さな幸せを大切に、今を生きてほしい」。そんなメッセージを伝えている。
それでも、自宅には両親の写真はまだ飾れていない。「なかなか見られなくて。娘も3歳。そろそろ、見せなきゃかな」。13年。やっと、飾る決心がついた。