鎌倉公方は室町幕府が関東10カ国を統治するために設置した鎌倉府の長官で、足利尊氏の子・足利基氏が初代鎌倉公方となって以降、子孫がその職を世襲してきた。
鎌倉公方は2代足利氏満の頃から室町幕府と対立するようになる。氏満は3代将軍足利義満に反抗し、3代鎌倉公方の満兼も義満に反抗の態度を示し、その都度、関東管領上杉氏の説得で事なきを得てきたとされる。
しかし、4代鎌倉公方の持氏は、将軍家への反発の意思を明確にし、鎌倉府を独自に支配しようと考えた模様である。持氏は、子の賢王丸を「義久」と改め元服式を行ったが、「義」の字は将軍など特別な者にだけ許されるものであったという。関東管領上杉憲実はこのことを諫めたが、持氏と対立することとなる。持氏は憲実を討とうとしたが、憲実は6代将軍足利義教に訴えて救援を願い、義教は持氏追討を命じ、持氏は戦いに敗れることとなる。これが永享の乱である(1438年)。持氏は出家したが、翌年、憲実は持氏のいる永安寺(廃寺)を襲い、持氏は自害することとなる。
鎌倉公方ゆかりの寺院として、瑞泉寺と別願寺が挙げられる。二階堂の瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺としては関東十刹第一位の格式を誇った。また、大町の別願寺は鎌倉における時宗の中心となり、足利一族が信仰し、鎌倉公方の菩提寺となった。別願寺には大きな宝塔があるが、これは永享の乱で敗れた4代鎌倉公方足利持氏の供養塔で、古の鎌倉公方を偲ぶことができる。
山東直大