戸板市や黒船祭り、おつかい便など、他の商店街とは違った手法で賑わいを創出してきた久里浜。その中でも100年以上続く店舗が多いのが黒船仲通り商店街(橋本篤一郎理事長・71)とすずらん通り商店街(小車等会長・74)だ。時代の流れとともに、どう商売に向き合ってきたのか。商店街の意義について、トップ2人に聞いた。
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―お二人のご関係は?
橋本…小車さんは3つ上の先輩。子どもの頃はお父さんの辰夫さんに髪を切ってもらっていた。
小車…私も篤ちゃんの店へおつかいに行かされた。父親から「買い物するなら商店街の店じゃないと駄目だ。持ちつ持たれつでやってかなきゃ」と口酸っぱく言われていたから。お茶じゃなくて、煙草とか雑貨を中心に売っていたけれど。
橋本…付き合いは長いよ。生まれてずっと一緒みたいなものだから。
―お二人が商売を始めたのはいつからですか?
橋本…祖母が経営していたよろず屋を受け継いだのが21歳。江戸時代から続く商人家系なんだけれど、父親は浦賀ドックで働いていたサラリーマン。ここで途絶えさせたくないと思った。それでせっかく自分の店を持つなら製茶店にしようと。お茶は日本の家庭には欠かせないものだから。
小車…父親は寡黙で、背中で仕事を教える人だった。私が35歳を過ぎた頃、その父が脳梗塞で入院、5年後に亡くなり、3代目を受け継いだ。我々の親世代にあたる「旦那衆」がいた頃の活気が懐かしい。
―「旦那衆」とはどういう人を指すのですか?
橋本…昭和50~60年代の商店街の売上は凄まじかった。まだ大型スーパーもなくて、ここにしか売っていないものがたくさんあったから。例えば「吉田八百屋」(新鮮屋ヨシダ)は年末、トラック何台分の野菜を仕入れたか数えられない。街は人の頭で埋め尽くされて、商品を並べればたちまち売れてなくなり、みんな相当稼いでいた。
小車…酒の席なんかでよく奢ってもらって、豪快だった。そういう人たちに若手は敬愛を込めて「旦那」と呼んだんだ。
―羨ましい時代ですね。その後、久里浜にも大型スーパーなどが出店しますが、ここにしかない魅力やこだわりとは?
橋本…どの店主もプロとしての誇りを持っている。私の場合は、今のようにネットがない時代から全国各地にある茶葉の産地を巡り、お茶のルーツを徹底的に調べ上げた。街が誇る味わいにしようと無我夢中だった。今でも毎月、静岡の自社工場に出向いては、自分の目で厳選した茶葉を深蒸しにして、お客様に提供する。これを50年続けてきた自負がある。
小車…私の場合は「床屋の命」とも言える鋏の手入れは毎日欠かさない。あとは釣りやゴルフが好きだから、自ずと同じ趣味のお客様が集まる。髪を切って髭を剃る40~50分は神経を集中させつつ、お互いに会話を楽しみながら情報交換をする。篤ちゃんみたいに父親に切ってもらった年代の人も未だに来てくれる。帰り際に「また来るよ」の言葉で満足度が分かる幸せな仕事だよ。
橋本…うちの店でもついこの間、若いママさんがお茶を買いに来てね。見ないお客様だから話かけたら、「小学生の時、下校中に飲んだあのお茶の味が忘れられない」と夫に頼まれたらしくて。昔から来店客にお茶を振る舞うのが店のスタイルだから、大人になって思い出してくれるなんて感慨深かった。
―商店街の課題は?
橋本…後継者不足。店主の高齢化が進み、先が心配。だから商店街では小学生の職場体験を受け入れている。家では急須で淹れる茶の旨さを知ってもらい、少しでも興味持ってもらえればと。
小車…息子で4代目になる。口下手だが近頃はお客様と積極的に話す姿も見られる。我々の次の世代となる40~50代に盛り上げてもらいたい。
―商店街は今後、お客様にとってどんな存在になりたいですか?
橋本…「ここには本物があるのではないか」と思わせるような場になれば、商い冥利に尽きる。
小車…マリノスの練習場もできる。〝その道のプロ〟として店主同士で大いに刺激し合い、街全体として若者を歓迎するムードを高められたら。