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“会津藩士”に想い馳せて~三浦半島に眠る墓石めぐり~

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三浦半島と福島県会津地方との関わりは800年以上前の鎌倉時代、三浦大介義明の息子が源頼朝から合戦の褒美として会津4群を与えられたことが始まりと言われています。

江戸時代に入ると、外国船の来航を防ぐため、徳川幕府から江戸湾西側の警備を命じられた会津藩士約1600人が、今の三浦市や横須賀市に陣屋を構えました。任務にあたった10年の間に生涯を閉じた藩士やその家族87基の墓が今も両市に残っています。

鶴ヶ城(会津若松城)が開城した9月22日に合わせ、会津若松市出身の記者が会津藩士たちの功績を称え、墓石をめぐってみました。

大椿寺

まず向かったのは大椿寺。隣には、椿の御所幼稚園があります。園長で住職の土田成明さんにお会いして、今回の取材の趣旨を伝えると、奥にあった「大椿寺誌」なるものを見せてもらいました。

ページを捲ると、墓石に眠る会津藩士たちの名がずらりと載っていました。先々代の住職が書かれたものだそうです。その後、土田さんの案内で階段を登ると、2つの墓がありました。

さらに上にある裏山へ上ると、5つの墓がありました。いずれも海の方を向いているそうです。

大椿寺の敷地は、別の所にもあるということなので、車を数分走らせて現場へ。すると、大きな看板を発見。

少し下ってみると、木々の隙間からこぼれた陽の光に照らされて、大小27つの墓がありました。

最福寺

次に向かったのは最福寺です。早速、境内の入口に墓が1つありました。

桑田廣隆住職に話を聞くと、会津藩士の妻の墓だと言います。「私の父である先代の住職が、夢枕に睨みつける武士が出てきたことをきっかけに、近くの土を掘り起こしてみると、この墓石が出てきたそうなんです」とのこと。とても不思議な話です。

長善寺(飛び地)

最後は長善寺へ。ただ、境内の近くにはなく、少し離れた別の敷地に墓地が存在します。

ここには2つの墓がありました。

まとめ

三浦市

  • 大椿寺墓地(城山町15) 27基 ※供養碑含む
  • 大椿寺墓地(向ヶ崎町11-1) 2基
  • 大椿寺裏山(向ヶ崎町11-1) 5基
  • 最福寺(白石町6-23) 1基
  • 長善寺飛び地(三崎町諸磯962付近) 2基

横須賀市

  • 円照寺(走水2-9-9) 6基
  • 能満寺(鴨居2-24-1) 10基
  • 西徳寺(鴨居2-20-4) 11基
  • 腰越墓地(鴨居3-24-13) 23基

浦賀城址から眺めた海

 以前に、横須賀市にある墓もめぐったことがあります。戊辰戦争を経験して明治以降、浦賀で商人や議員などとして活躍した旧会津藩士たちが眠っていました。石に刻まれている「穴澤家(アナザワケ)」「鹿目家(カノメケ)」などの苗字は会津特有らしく、私も学生時代に同じ姓の友人がいたことを思い出しました。東叶神社の裏山には浦賀城址があり、ペリー来航の時に住民はそこから黒船を眺めたと言います。

 1968年まで会津藩士の墓の存在は知られることなく、無縁仏となっていましたが、三浦半島会津藩士顕彰会初期メンバーの故・星正夫さんが、手弁当で寺院の過去帳を照らし合わせ、家族関係を記録。現在、腰越墓地は市指定史跡となっています。

 今回の取材を通して、現在確認されている会津藩士の墓の全てに手を合わせることが出来ました。何だか“サムライスピリット”を感じて、無性に日本酒を吞みたくなり、自宅に帰ると様々な想いと一緒に飲み干しました。「私たちが毎日楽しく生きることができるのは、約200年前の藩士たちのおかげだ」。秋の宵にしみじみとそう思いました。

住所

神奈川県三浦市

公開日:2022-09-21

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