関東大震災 その時、旭区では? 史料から被害を読み解く@横浜市旭区

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関東大震災 その時、旭区では? 史料から被害を読み解く@横浜市旭区
震災で焦土と化した横浜市街(大震災記念寫眞帖より)

旭区内の残された資料から

 1923(大正12)年9月1日、午前11時58分。マグニチュード7・9の大地震が関東地方を襲った。関東大震災である。東京、神奈川を中心に、死者・行方不明者合わせて約10万5千人ともいわれる大災害からちょうど100年。本紙では、区内に残された数少ない史料から、当時の様子を紐解く。

県知事から表彰

 『旭区誕生50周年記念誌』では、都岡・二俣川両村(当時都筑郡)で「死者11人、行方不明5人・全壊126戸」と被害が記録されている。

 震災発生当時、現在の旭区域には都岡、市沢、二俣川、白根、上川井の5つの小学校が既に開校していた。5校は、失火や戦争被害などで校舎の消失に見舞われており、当時の記録は残っていなかった。

 『いちさわ小百年のあゆみ』には、市野沢村の被害として「全壊住宅4戸、物置・納屋数戸倒壊」との記述がある。

 都岡小学校の110周年誌には「理科室薬品戸棚から出火。職員が火を消し延焼を抑えたことで後日、県知事から賞状をもらった」ことが記されている。当時の神奈川県知事は安河内麻吉。安河内は自らの家庭の被害に目もくれず、寝食を忘れて救援活動の指揮に勤めたという。

 二俣川小学校には、震災から2年後に県が編纂した『大震災記念寫眞帖』が保管されていた。寫眞帖の裏表紙には安河内の雅号「稚杉」とともに直筆の「天意不可測」が記されている=写真下。

当時の神奈川県知事 安河内麻吉(雅号「稚杉」)の直筆

横浜復旧の拠点

 この年の4月に校名を神奈川県立横浜第一中学校に改称した県立希望ケ丘高校は、まだ旧久良岐郡(現西区)に校舎があった。同校の100年史によると、火災を免れた校舎は、この日の夕方から罹災者の避難場所となった。庁舎を焼失した戸部警察署の本部が移され、博物教室が留置場に代用された。他にも、救護班として来県した日本赤十字社奈良県支部や橋・道路の復旧に当たった工兵14大隊の一部の宿舎にもなっており、同校が「西部横浜復興の中心となった」と記されている。

住所

神奈川県横浜市旭区

公開日:2023-09-06

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