伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、1516(永正13)年に滅亡した三浦氏。最後の当主である三浦道寸・義意(荒次郎)の居城「新井城」と父子の名を刻んだ石碑(メモリアル)の新井城址内への設置を求める内容など2件の陳情書が、三浦市議会に提出された。3月6日に開かれた都市民生常任委員会の場に姿を現したのは、市民サークル「中世三浦歴史探検隊」で隊長を務める小網代在住のアダチ・クリスティ(安達則子)さん。「三浦の人々から愛され続けてきた『新井城』の名を後世に残してほしい」と自身の思いを熱弁した。
「500年以上もの間三浦市民に親しまれてきた『新井城』の名が今、消えつつある」。陳情の理由についてアダチさんはこう切り出した。
「新井城」の記載は歴史的根拠とされる古文書など一次史料には見当たらず、軍記物など二次史料に限られており、30年ほど前から「一族が滅亡した城は『三崎要害』(三崎城)で『新井城』ではない」、さらには「架空の城だ」という説を唱える歴史研究家まで出始めているという。
この状況に危機感を抱き、アダチさんは「市民のアイデンティティーと誇りのために『新井城』の歴史を刻んだ朽ちることのない石碑を設置してほしい」と訴えた。
もう一つの陳情書は、水源洞窟について。「一族が3年籠城するためには不可欠だった」とアダチさんは新井城の水源を探し、3つの井戸を確認できた。ただ未だに分からないことがあった。20年前、胴網海岸を見下ろす崖に大きさ72m×25mほどの洞窟を発見。中に入ってみると、水が流れていた。「一族時代の遺構か、太平洋戦争時代の遺構か、一族時代の遺構を太平洋戦争時代に利用したか。いずれにせよ後世に伝えるべき」。3月15日に営業終了となる「ホテル京急油壺 観潮荘」「京急油壺温泉キャンプパーク」の解体前に調査・記録を求めた。
アダチさんが陳情書を提出したきっかけは、名向小学校で昨年10月、6年生に歴史の授業をした際に「あそこに行っても城だと思えない」という児童の一言だった。
「海と崖に囲まれた難攻不落の名城『新井城』。ここには美しい景観とドラマチックな歴史が存在していることを子どもたちだけでなく、地元の人、市外の人、たくさんの人々に知ってほしい。観光や経済の活性化にもつながるはず」。アダチさんの挑戦は続く。
なお、陳情書は市議会で継続審査される。