——未来と名のつく、どうしようもなく遠いものに向けて
育てるとは、何でしょう。私は、この言葉が少し苦手です。育てるなどというと、何かこちらが上で、相手が下のような気がして、どうにも落ち着かないのです。ですが、子どもという存在に出会ってから、私はその違和感を、少しだけ大切に思えるようになりました。
子どもは、勝手に育ちます。いや、正確には、こちらが何をしようと関係なく、育っていってしまう。それが、嬉しくもあり、ひどく寂しくもあります。
脳がどう成長するのか、共感力がどう形成されるのか、専門家は懇切丁寧に教えてくれます。なるほど、と私は一度は納得したような顔をしてみせるのですが、夜中の泣き声の前では、どの論文も役に立ちません。
「どうして泣いているのか」ではなく、「泣いているその子を、どう受け止めるのか」——それが、子育ての核心なのではないか。
私は、そう考えるようになりました。
正直に申し上げますと、私は何も分かっていません。この子に、何が必要なのか。この社会が、どんな未来を与えるのか。私は、ただ、手探りで、その瞬間の“ましな選択”を選んでいるだけです。
それでも私は、育てたいと思うのです。なぜなら、この子が未来へ進む姿を、見てみたいのです。それだけです。けれども、もしこの子が、自分の人生を「愛している」と一度でも言えるようになるなら、私はその時、ようやく「育てた」と言えるのかもしれません。
未来? そんなものはわかりません。でも、この子が未来のどこかで笑ってくれたら——それが、たった一度だけでも叶うなら、私は生きてきた意味が、あったような気がするのです。