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<記者レポ>国境を越えた愛と信仰 宣教師エステラ・フィンチが横須賀の日本陸海軍人伝道に捧げた生涯とは?

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<記者レポ>国境を越えた愛と信仰 宣教師エステラ・フィンチが横須賀の日本陸海軍人伝道に捧げた生涯とは?
海野 涼子著/芙蓉書房出版

エステラ・フィンチって??

富国強兵を掲げ、軍事力の強化が進んだ明治時代。そんな中、日本の陸海軍人への伝道に尽力し「マザー」と親しまれたアメリカ婦人宣教師の存在があった―。

エステラ・フィンチ(日本名:星田光代)は1893年(明治26年)、キリスト教の布教を目的に24歳で初来日しました。特に横須賀の陸海軍人に布教活動を行い、「日本陸海軍人伝道義会」(以下:伝道義会)を設立。聖書講義や集会を通して、多くの軍人の精神的な支えとなりました。異文化の中で人々に寄り添ったその生涯は、今もひっそりと語り継がれていますが、その多くはあまり知られていません。

このレポートでは、フィンチを陰で支え最後まで信頼すべきパートナーとなった日本人牧師、黒田惟信(これのぶ)の孫にあたる海野涼子さんの著書『エステラ・フィンチ評伝:日本陸海軍人伝道に捧げた生涯』と、海野さんへの取材内容を元にフィンチの功績や人物像に迫ります。

取材に応じる海野さん

 

  • 明治期に、24歳で初来日したアメリカ人婦人宣教師
  • 日本人牧師の黒田惟信とともに伝道活動を行った
  • 日本の軍人に特化した教会「日本陸海軍人伝道義会」を横須賀に設立
  • 多くの陸海軍人から「マザー」と呼ばれ、親しまれた
  • 40歳で日本に帰化して、星田光代と改名。外国人初の横須賀市民となる
  • 横須賀市公郷町の曹源寺のお墓に供養されている

黒田惟信との出会い

一時は帰国を決意

24歳で初来日したフィンチは神戸の女学院を拠点に1ヵ月ほど伝道を続けました。続いて向かった東京のミッションスクール(福音宣教を行うキリスト教系の学校)で5年が経った頃、新潟(高田)に出来た分校に移転。しかし日本人の国民性なのか、自身の力不足なのか。聖書の教えの一つである「悔い改め」の普及は思うようにいかず、「この国での伝道は諦めよう」―。そんな時に出会ったのが、牧師として全国巡業中だった海野さんの祖父、黒田惟信でした。

そして横須賀へ

「いまの私があるのはあの時、神から赦されたからだ」。黒田は若くして肺結核で短命を告げられましたが、牧師となり、横須賀へ向かう船内で過去の罪を悔い改めたことで今を生きられていると話すのです。

フィンチはその言葉にハッとし、一旦は帰国するが、1年後に黒田の拠点でもあった横須賀での軍人伝道に挺身することを決意したのです。

伝道義会の設立

青年軍人のホームになる場に

横須賀へやってきたフィンチは、現在のモアーズシティの裏あたりに伝道義会を設立。約400坪の広大な土地には、本館、フィンチと黒田それぞれの居宅、柔道場や剣道場もあり、海軍機関学校の学生たちはよく練習や稽古に明け暮れていたそうです。

  • 軍人の来会者は「ボーイズ」と呼ばれた

エステラ・フィンチと黒田惟信両師と海軍機関学校のボーイズ達(明治33年)

アットホームな雰囲気の教会

軍隊のような厳しい規則もなければ、上官からの命令もない。あるのは静かな空間での礼拝や軍人のための祈り、聖書講義、歓談―。一般的な集会のみならず、将校、下士官を問わず食事、宿泊ができるなど、独特な伝道機関として「家庭的な温かさ」を求めて、来会者は日ごと増えていきました。

青年軍人たちは、家庭を離れ明日をも知れない命の中、日々生きている。宣教だけでなく、彼らの心休まるホームとなる場にしたい」。そんな環境をめざして黒田とフィンチは日々奔走していたのです。

しかし時世もあってか、色眼鏡が向けられスパイ視されることも。「フィンチにとっては迫害に近いものがあったんじゃないかな」。海野さんは当時のフィンチの気持ちを推察します。

「日本人と同じ心で」

そのような状況下でなぜ伝道を続けられたのか。それは、情勢や周囲からの評価に関わらず「日本人に伝道しに来たんだ」。その覚悟がフィンチの中にずっと宿っていたからだと海野さんは話します。

そのためにフィンチは日本文化や言葉、書道、国学者でもあった黒田とは日本の史跡見学にも同行するなど、日本人の心を日々学んでいきました。

フィンチが横須賀に来た翌年には日清戦争、続いて日露戦争が勃発。家族も同然に接してきたボーイズたちは出征し、戦死することもあった。

「愛するボーイズたちが祖国のために戦死しているのに、私が日本人にならずにいられましょうか」。齢40にして、フィンチが日本に帰化した理由の一つです。

フィンチの功績、後世に

フィンチの功績が横須賀市内で語り継がれることは多くありません。現在は横須賀市公郷町にある「曹源寺」に、黒田と隣り合わせで墓碑が並んでいます(没年55歳)命日には、かつて伝道義会へ足しげく通ったボーイズの子孫や関係者らが日米の国旗を掲げ、供養をしています。

フィンチの墓(手前)と黒田の墓。

現在、2人の子孫を中心に墓を管理していますが、いずれ管理が出来なくなる可能性があります。そこで海野さんは、行政などに墓の管理したり、フィンチの功績を市の歴史として、残していけるよう掛け合っています。横須賀で若き軍人たちの心の拠り所となったフィンチの“生きた証”を伝えるため、海野さんは奔走しています。

海野涼子(うみのりょうこ)

マザーオブヨコスカ顕彰会代表。久里浜教会会員。横浜プロテスタント史研究会会員。1938年横須賀市若松町生まれ。清泉女学院卒。ワシントンD.C.の在米大使館防衛駐在官となった夫に同伴し4年間同地に在住。

  • エステラ・フィンチ評伝 日本陸海軍人伝道に捧げた生涯はコチラ

住所

神奈川県横須賀市 

公開日:2025-05-31

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