戦後、新制中学校が開校した1947年、学校制度の変化と校地不足が影響し、柿生地区の中学3年生30人は、越境して生田中学校に通っていた。生田中で1年を過ごした2人に当時の生活について聞いた。
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2022年5月まで上麻生で45年にわたり、喫茶店やギャラリーの「華沙里」を切り盛りし、麻生区の文化芸術を支えてきた井上美佐子さん(90)=上麻生在住=は、生田中の1期生だ。家庭の事情で女学校への進学を断念したが、「中学は公立だし、行きたい人は行ってもいいということだったので」と入学した。
当時の住所は山口(現上麻生)。通学は自宅から柿生駅まで歩き、小田急線に乗って、2駅先の東生田駅(現生田駅)で下車。そこから徒歩で学校へ向かった。旧陸軍の「登戸研究所」を転用した校舎は「がらんどうで何もなく、本当に寒かった」と振り返る。高津まで椅子や机を取りに行き、歩いて運んだことを記憶する。
戦後の混乱期の思い出
教科書はなく、授業ではガリ版で印刷したプリントを使用。『枕草子』や上田敏の詩を覚えた。先生は「寄せ集め」で、予科練から帰ってきた数学の先生や、農業を教える先生がいたという。
「一体何をやっていたんだろう」と思うほどの戦後の混乱期、一番の思い出は、生田中近くの貸本屋に通ったことだ。「店主の人がいろいろ勧めてくれて。おかげで本を読む楽しさを知った」と笑みをこぼす。
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今も井上さんと親交のある中山(旧姓村野)冨士江さん(90)=片平在住=は、「長い板に3人がけで並んで座っていた」と教室内を思い出す。英語の教材は、英文が紙に刷られたものが、閉じられただけ。「It is a penみたいな簡単なものしか書かれていたなかった」。何もかもが不足していた。
放課後は「同じクラスの子と、まっすぐ柿生に帰っていた」という中山さん。家に帰ると、幼い弟たちの子守りや台所仕事を手伝った。
「学校らしくなく、短くて、そんなに思い出はない」というが、そんな中でも柿生以外の友人ができた。1期生として、友人と共に生田中の合唱祭に出席したこともある。「皆さんとっても仲が良かった」。1年の中学生活に思いをはせた。