八王子市内の「千人町」という地名の由来を知っていますか?
江戸時代、徳川家直属の御家人だった武士団「八王子千人同心」が居住していたことからきています。その歴史は徳川幕府とともにおよそ270年ある一方、残されている資料はあまり多くないとか。
八王子千人同心旧交会の会長で郷土史研究家の野嶋和之さんと千人町にあり、千人同心とゆかりの深いお寺、宗格院の住職浦野信幸さんに話を聞いてきました。
甲州への防備に
千人同心とは、その名の通り1000人からなります。1組100人、10組で構成され、各組には1人の千人頭を筆頭に10人の組頭で組織されます。
天正18(1590)年。徳川家康が駿府(静岡県)から江戸へ移ることに伴い、当時、甲斐国境の警備の任務についていた9人の小人頭と300人ほどの小人が八王子城下に移りました。これが千人同心の始まりです。文禄2年(1593)年、現在の地(千人町)の地を中心に居住を移しています。(八王子千人同心旧交会資料より)
江戸幕府が整備した甲州街道の両側に展開する「八王子横山15宿」、その西側に千人同心の居住地が置かれました。
野嶋さんは「大きい意味では甲州への防備のために置かれたのでしょう。関東平野はさまざまなところから攻められる可能性があったので南は小田原城、甲州口は八王子、など守りを置く必要がありました」と言います。
移り住んだ当初は同心の人数が500人だったため、「五百人町」と呼ばれていたそうですよ。
千人町を中心に半径40キロ
千人頭をはじめ100人ほどが千人町に住み、1人1人がお屋敷で暮らしていたそうです。そのほかの同心たちは周辺地域に。その範囲は現在でいうところ、北は所沢、東は三鷹、西は相模湖あたりまで40キロ四方にまで及んでいたそうです。
「まるで双六のようですね」と語る野嶋さんが見せてくれたのは、嘉衛7(1854)年に作られた『番組合之宿圖』―千人同心姓名在所圖表―。千人町から在郷の同心に出す通達や廻状(現在の回覧板)の連絡網の目的で作られたと推測され、八王子千人同心の総員を知る唯一無二の資料だそう。幕末になると宗格院が千人同心の屯所となったようです。
郷土史編纂、蝦夷に開拓…そして最後は戦地へ
戦争のない時代が続くと、次第に千人同心の役割は学問や武術発展の寄与に役目を移していきました。近世の地誌の基本資料となる「新編武蔵野国風土記稿」は、幕府の命を受け、千人町の組頭数名が調査執筆したものです。また、蝦夷地の開拓にも。「平和が続き、幕府も千人同心に対し持て余す部分もあったのかもしれませんね」。江戸幕府が幕を閉じた翌年、戊辰戦争のひとつ「上野の戦い」への参戦が千人同心最後の役目となりました。明治政府への公の記録にはありませんが「200人ほどの参加名簿が残っている」そう。野嶋さんは「千人同心は一言では言い表せない」と締めくくってくれました。
▼宗格院のレポートはこちら