画家・上原さつきさんとお会いしたのは、NHK連続テレビ小説『らんまん』に出てくる植物画を半年で363枚描いたという記事を書くためだった。だが、話を深く聞くと、難病と闘い、絵が人生を支えてくれたという80年間が浮かび上がってきた。2023年9月には、長年の悲願だった「二科展会員賞」を受賞した。「私の人生は、絵で埋め尽くされている。難病のときも、絵に元気をもらった。ピンチをチャンスに変えてくれた存在。絵があったからこそ、80歳まで生きてこられた」と上原さん。上原さんの人生の紹介と今まで描いてきた作品で特に思い入れの強い作品を紹介していく。
【プロフィール】
小学校6年生の時、故郷の群馬県・赤城山を遠くに、植えたばかりの田園風景を描き、小学校のコンクールで金賞を受賞した。「その瞬間から絵の世界にのめり込んだのかもしれない」と上原さんは回顧する。美術大学への進学を希望していたが、経済的な理由から行けず。「少しでも近い世界に」との思いでファッションの世界へ。ブティックを開店することを夢見た。日本で活躍するファッションデザイナーの色彩に憧れた。Aラインの服を手掛けた。また、少女漫画家と赤坂で打ち合わせを重ね、少女漫画に出てくるキャラクターが着る服作りも行った。
伊藤深水や竹久夢二の絵に憧れ、夢中で模写した。紙と鉛筆があれば、何にでも、どこにでも描いた。寝相の悪い子どもたちの昼寝姿、車の助手席から見る夫の横顔も描いた。サイドミラーに写る遠くの山脈、雲の動き、彩雲に遭遇すれば、帰宅してすぐに水彩画で残した。森や樹木の形もアウトラインで描くと、「仲良しな友人」「集団」「動物の形」など、面白い形に見えた。瞬間的な集中力と早描きの技術は自然と身に着いたものかもしれない。
そのような中で、「『絵は、美しく、癒される存在でなければ!』と色や形、線、光と影、間合いの勉強は画集や多くの絵を見てきた。たとえ、後輩だったとしても、自分以外はすべて『師』と思い、常に感謝しながら、とにかく自分で描いた」と振り返る。
2023年・80歳 悲願だった「二科展会員賞」を受賞し、抜け殻の状態だったが、NHK連続テレビ小説『らんまん』に出てくる植物画を半年で363枚描くことで、目を覚ました。
- 川崎市多摩区・長尾在住上原さん 植物画 半年で363枚 朝ドラに感化 全話分描く(タウンニュース多摩区版・2023年10月20日号)▼詳細は下記記事から!
川崎市宮前いきいきセンター(宮前老人福祉センター)で行われた作品展でも展示された。
33歳で難病を患った。46歳で完治するまでの13年間、入退院を繰り返す日々を送った。40歳のとき、パステル画を独学で始めた。また、水彩画や油絵など、さまざまな絵を描くようになっていった。近所の子どもたちが絵を持ってきて、アドバイスを行うことも。「絵や子どもから元気をもらった」と上原さん。そこから始まる上原さんの特に思い入れのある作品を紹介していく。
上記は1989年、渋谷で初個展を開催。パステル画で描いた作品と、当時の上原夫妻のカレンダー。
1993年、78回二科展で初入選したのは50歳のとき。ここから思い入れの強い17の作品を紹介していく。上原さんは「絵を見て思うままに、自由に感じてほしい」との思いが強い。そのため、絵の説明は本人の言葉のまま、最小限にとどめている。「絵から、思い思いに感じてもらいたい」
78回二科展(1993年)での初の入選作品から紹介を始める。
① 初入選 1993年 78回二科展 『マイルーム』 F50
「難病を完治させたが、思うような外出は無理があり、部屋の中で描けるモチーフでマイルームを描いた。奥のドレッサー、手前の洋服かけも、嫁入り道具。1番好きな色は淡いブルー。ガラステーブルをたぶらせた」
② 1995年 80回二科展 『マイルーム』 F50
「家の玄関から奥に見えるドレッサーまでを描いた。20代の頃に自分のボディラインに合わせて作ってもらった服を描いておきたかった」
③ 1998年 二科神奈川支部展40回 県知事賞 『灯』 F100
「ギターを弾いている女と、ハトと遊んでいる私を、やっぱり自分の部屋の中で。ちょっと抽象画にしてみたくなった」
④ 2001年 86回二科展 『ポルトへの思い』 F100
「1999年にポルトガル二科展ツアーに参加。その国の海の色と、多くの色で描かれたポルトガルのまちのなかのさまざまな壁面を参考に描いた」
⑤ 2002年 二科神奈川支部展44回 大賞 『ポルトへの想い』 F100
「日本とポルトガルの友好展へ参加したとき、(左上)ポルトガルの工場の炊事場のえんとつと、ポルトガルの色と鳥を描いた。大病を乗り越え、『海外へ行けたぞーー!!!』と強い気持ちで描いた」
⑥ 2004年 二科神奈川支部展46回 特別賞 『ポルトへの想い』 F100
「ドレスの中にポルトガルの風景を線描で表現した」
⑦ 2004年 『麗』 F100
「故郷への恩返しの気持ちを込め、描いた。生まれ育った群馬県・太田市の美術展に出展、そのまま、太田市に作品を寄贈した」
⑧ 2004年 89回二科展 『ポルトガルへの想い』 F50
「二科展の会友推挙になった。ポルトガルの風景を明るい色で浮かび上がらせた手法。ポルトガルはけっこう、蜘蛛の巣があった(左上に表現)」
⑨ 2008年 31回二科展 会友賞 『家族』 F100
「娘が第一子出産のタイミングで、娘が幸せになるよう、娘家族と、嫁ぎ先のご両親を描いた」
⑩ 2012年 97回二科展 会員(審査員)になる。 『天蚕』 F100
「『会員に推挙されたから思い残すことはもうない!!』と思い、頑張って描いた」
▼会員(審査員)となった2012年9月の表彰式の様子▼
⑪ 2010年ごろ 『何処へ?』 F80
「20代のファッションデザイナーだった頃を思い出して、好きなように自由に描いてみた」
⑫ 2016年 『羽田の海に眠る』 SM
「義弟の死のことを知ったのは、半年後。羽田の海に行き、おもいっきり泣いた。荒れ狂う海に、晴れた空、そのとき、たった一機の飛行機が急に出現し、すぐさま遠くに消えてしまった。妹に贈った絵」
⑬ 2018年ごろ 水彩画 『黄色いバラ』(上)と『赤い椿』(下) 変形性扇型F4
⑭ 2015年 『咲く』 F10
「フランスのシャンゼリゼ通り展に出品。このとき、お世話になった若くて美人な彼女はこの後、亡くなった。この絵は、なぜか、カメラで写してもぼやけてしまう、不思議な絵。白い白いバラを描いた」
⑮ 2023年5月 『海の中の天蚕』 F100
「海の中に咲く白く淡黄色の花。その周りをぐるぐる生きている魚たち。長尾小学校(多摩区)の40周年のとき、記念で寄贈した作品」
⑯ 2023年9月 107回二科展 会員賞(審査員) 『沈黙』 変形200号
「動物の中でも言葉を使えるのは、人間だけ。褒めて伸ばし、成功に導くこともある。しかし、ともすれば、その言葉が人を傷つけることもある。80年間の人生の中で、病気という岐路に立ったとき、やはり、『沈黙』は何よりも自分に力を与えてくれる存在だと知った」
▼第107回二科美術展覧会 会員賞(審査員)の賞状を持つ上原さん=2023年11月6日撮影
⑰ 2023年9月5日 『静かに守ってくれる大きな月』 はがきサイズ
「夫82歳の誕生日に贈った作品。病気のときも、絵のときも、100%応援してくれた夫への絵手紙」
2006年 9月23日 新横浜国際ホテル 息子結婚
2006年 12月23日 横浜山手ロイストンホテル 娘結婚
2021年 「コロナ禍でも支えてくれた家族たち」
▶絵の寄贈先を探しています!!
「80年間、多くの人たちに支えられてきました。社会に対して、恩返しがしたいとの思いがあり、私が描いた絵の寄贈先を探しています。病院で待っているとき、絵があったらきっと、癒されるでしょう。絵には力があります。私自身、病気と闘ってきた人生でした。その人生を支えてくれたのは、絵です。その絵を多くの人に見てほしいです。それで、一人でも多くの人が元気になれば。油絵なので、何年経っても色あせないのが特徴です。長く飾ってもらえる場所に寄贈したいです。病院や学校、公共施設など。もちろん、料金はいただきません。運搬費のみご相談させてください」
F250号 1点 (292cm✖横162cm)※下記作品例
F200号 5点 (縦259cm✖横194cm)※下記作品例
F100号 5点 (縦162cm✖横130cm)※下記作品例
F50号 5点 (縦116cm✖横91cm)※下記作品例
寄贈のご相談は、上原さつきさん 携帯電話 090・8816・9157 へ。
編集後記
送られてきた何枚かのファックス。そこには『らんまん』に出てきた植物画を半年間で363枚描いたと、書いてあった。「面白そう」。そんな記者心が動き、早速、上原さんに会いに行った。そこで、約2時間、話を聞いた。単に、絵だけではなく、「絵が支えてくれた人生」を教えてくれた。「自身の描いた絵を残しておきたい」。そんな上原さんの想いからこの記事は書かれた。上原さんは言う。「絵は見て、自由に感じてほしい。そこに言葉はいらないのよ」。この記事に、絵を邪魔するような余計な言葉は、入っていなかっただろうか。そんな心配をしながら、筆を置かせていただくこととする。
<タウンニュース社多摩区編集室:坪田 拓郎>