治承4(1180)年源頼朝が入り都市としての発展を遂げたイメージの強い鎌倉。しかしかつて鎌倉郡の郡家(ぐうけ)(郡衙)が置かれ、相模国にあった8郡の1つとして、行政の中心地であったことはあまり知られていない。
郡家は陸路と水路が交わる交通の要衝に築かれ、郡内の税を集め都へ運んだ。鎌倉は相模国と三浦半島・房総半島を結ぶ重要な地であった。
鎌倉郡家が置かれた当時の海面は、今より4mほど高かったといわれ、船はかなり内陸まで入って来ることができたようだ。干満の差で絶えず河口付近の流れと水位は変化し、この差を利用して船は出入りした。
滑川の流路は今と昔では少し違うが、河口付近には砂州が形成され、細長い砂丘が内側に静かな水面を生み出していた。これが潟湖である。潟湖は外海と隔てられているため波は穏やかで、喫水の浅い古代の船が停泊するには最適な港であった。鎌倉の潟湖は今の材木座(滑川側)付近にあり、河尻や沼浦という地名が往時を偲ばせる。
北鎌倉にある新居山円応寺は、かつて潟湖を形作った砂丘上にあり、新居の閻魔堂と呼ばれた。このためこの辺りを流れる滑川は「閻魔川」ともいわれる。新居の閻魔堂は、江戸時代の地震で大破し現在地に移った。そして今も閻魔様を祀り続けている。
海面の後退とともにいつしか潟湖は姿を消した。しかしその痕跡は古代都市鎌倉の象徴として、今も歴史に刻まれ続けている。
浮田定則