曹洞宗とは?「鎌倉時代に中国から道元によってられた宗教の一つ」。義務教育の学習で止まっている方も多いのでは。今回は横浜市鶴見区・江ケ崎町にある寿徳寺の住職で、歴史学者であり駒澤大学の学長を務めた経験のある廣瀬さんに曹洞宗についてのお話を伺いました。
意外と知らない禅宗・曹洞宗の始まりとは
曹洞宗の起源は、福井県の永平寺を開山した道元禅師の話から始まります。
曹洞宗の開祖は道元禅師。宋の国に禅の教えを学ぶために渡り、帰国すると1244年に福井県に永平寺を開山しました。そして発展の元を作ったのは道元禅師の四代目の弟子である瑩山禅師。永平寺で修行を重ねた瑩山禅師は18歳の年に全国を渡り歩く修行を志し、曹洞宗の布教と弟子の育成に力を入れました。そして、その弟子たちが全国各地を巡り仏法を多くの人に説いたことで全国に曹洞宗が展開されていきました。
ということで、道元禅師がいなければ曹洞宗は始まらず、瑩山禅師がいなければ広まらなかったということで、この2人が曹洞宗の祖とされています。
大本山の永平寺と總持寺
曹洞宗では、福井県の永平寺と現在は鶴見にある總持寺の2寺院が大本山とされています。
永平寺は道元禅師が開山し、宋の国から得た教えに従って一人でも正しい御仏の教えを伝えるものを育てようと一生を尽くしました。
また、總持寺は最初は1321年に能登半島の一角(石川県輪島市)に瑩山禅師によって開山され、多くの弟子が全国から修行のために集まりました。永平寺にも弟子が集まることで總持寺にも人が集まり、全国に曹洞宗が伝播していったそうです。ただ、總持寺は1898年にほとんどが焼けてしまったため、本山存立や宗門の現代的使命の自覚等を目的として1909年に移転を決断。1911年に鶴見の地に移されました。
曹洞宗の地方展開
廣瀬住職の研究によると、曹洞宗は15・16世紀にその土地の権力者に受け入れられ東日本を中心に発展し、山村や後進農村でより発展した傾向があるといいます。禅僧は、全国各地の農村に迷うことなく極楽浄土へ行くための戒名や葬式で行う「授戒会」という仏の弟子になり約束事を守ることを誓う儀式、更には温泉の開発もしていたと言います。
当時は村で産まれ村で死ぬ人も多く、禅僧たちは閉鎖的な社会の中で知識を授ける重要な役割も担ってきていたのだとか。江戸時代のには曹洞宗の寺院の数もピークを迎えていたと言われており、約1万7000カ所にも及んだと言います。
ただ、この時代は曹洞宗の中でも資料が少なく、各寺院の詳細などが抜け落ちていることから「暗黒時代」と呼ばれ、今でも不明なことが多いとされていて、住職はこの暗黒時代の研究のため、全国の寺院を回っているといいます。
寿徳寺の歴史
寿徳寺は元和元年(1615)(一説には寛永年間)に、現在地に寳泉寺六世の大室良奕大和尚を開山として寺院としての形式が整えられました。江戸幕府の檀家制度成立以前から現在まで、長い間鶴見区の矢向、江ヶ崎、川崎市の小倉の人々の安らぎの場所となっています。ただ、今から600年ほど前の板牌(石に刻んだ塔婆)と石塔の一部が境内に残っており、お堂か墓地などの仏教施設もあることから、この地で何らかの供養が行われていたのではないかとも考えられているそうです。現在では動物供養や水子供養も行っています。
もともとのご本尊は阿弥陀如来さまで、途中から曹洞宗寺院として改められ、現在は釈迦如来さまを祀っています。住職の研究によると山門脇の地蔵堂にいらっしゃる地蔵菩薩は、江戸時代に彫られたものだそうです。また、江戸時代に江ケ崎の村で米が取れていなかった頃、当時この辺りを統治していた「荒川氏」という旗本に年貢の米を減らして欲しいといった内容の減免を求める資料が残っていると言います。
- 江ケ崎町の八幡神社とも繋がりがあると言われていたり、寿徳寺が村の中でできた成り立ちなど今後の研究が進むのが楽しみですね。
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