※この記事は茅ヶ崎市が取材・執筆したものです。
竹崎 重紀(たけざき しげき)さん
茅ヶ崎市立浜須賀中出身。浜須賀中時代から好成績を収め長距離選手として注目される。法政大学に進学後、2年生から3年連続で箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)に出場。2・3年生は8区、4年生では3区にエントリーされて茅ヶ崎市内を駆け抜けていった。
お正月の風物詩・箱根駅伝は2024年に第100回大会を迎える
皆さんは毎年お正月をどうお過ごしでしょうか。帰省、初詣、初売り、家でのんびり…過ごし方・楽しみ方は様々かと思いますが、毎年1月2日、3日に開催されるお正月の風物詩・箱根駅伝を楽しみにされている方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
2024年に開催される箱根駅伝は第100回目となる節目の記念大会であり、長い歴史とともに大学駅伝の最高峰としても知られています。そんな箱根駅伝に実は茅ヶ崎市出身の選手が何人もいたことはご存じでしょうか。
その中から今回、竹崎 重紀(たけざき しげき)さんに箱根駅伝のお話を伺ってきました。
箱根駅伝には3回も出場されて、茅ヶ崎市も区間になっている3区(戸塚中継所→平塚中継所)と8区(平塚中継所→戸塚中継所)の両方を走られたそうですね
竹崎 大学2年生から3年連続で出場することができました。第75回大会(1999年)、第76回大会(2000年)で8区を、箱根駅伝最後となる4年生で出場した第77回大会(2001年)では3区を走りました。往路と復路の違いはありますが、同じ道を3年間走ったことになります。
駅伝を始めたきっかけはやはり箱根駅伝でしょうか
竹崎 陸上を本格的に始めたのは兄の影響もあって浜須賀中学校の陸上部からです。自分には長距離が合っていたので中学時代から好記録が出せていましたが、“箱根駅伝に出場する”という明確な目標があったわけではありませんでした。国道134号沿いに住んでいたこともあって、箱根駅伝はお正月に沿道から応援するという感覚でした。箱根駅伝を強く意識することになったのは、法政大学陸上部への入部からです。大学駅伝の最高峰として箱根駅伝は別格で、まさか自分が走る側になれるなんて思ってもいませんでした。
茅ヶ崎市出身ということで、地元・茅ヶ崎市を走る3区・8区を走りたいと希望していたのでしょうか
竹崎 3区・8区を希望していたわけではありませんでしたが、もしかしたら地元というのが考慮されていたのかもしれませんね。ただ、エントリーメンバーになって地元を走れる喜び以上に、みんなの期待を背負って出場するプレッシャーが大きかったです。とにかく自分のベストな走りをすることだけを考えていました。私はそんな思いでしたが、家族や友人など周りの方が3区・8区を走ることを本当に喜んでくれたことがとても印象に残っています。
3区・8区の特徴や見どころについて教えてください
竹崎 3区は序盤の藤沢市の遊行寺の坂を下り、茅ヶ崎市内に入ると平坦でまっすぐな海沿いの道が続くので他の区間に比べると走りやすいと言われています。当時の3区は“繋ぎの区間”と言われ、初出場の選手や1年生がエントリーされることが多かったです。
箱根駅伝に限らず、駅伝では前半で”流れ”を作ることでチーム全体に精神的な余裕が生まれて、後続選手にも良い影響を及ぼしてくれることが多いです。
近年の箱根駅伝は出場選手の実力が拮抗しており、1区2区では差が生じにくくなっています。そのため、エース区間と言われる2区に続き、3区も重点区間として各校の有力選手が走ることが増えているようです。遊行寺から国道134号に向かう“下り”の勢いでスピードに乗りやすいので、茅ヶ崎を通過する時はスピード感のあるレース展開が見どころではないでしょうか。
8区は終盤に遊行寺の坂が立ちはだかるので、3区の走りやすさとは一転し、選手の力が試される区間ではないでしょうか。上り坂と言えば箱根の山登りの5区を連想する方も多いと思うのですが、この遊行寺も箱根駅伝きっての難所と言われています。終盤の苦しい時に長く続く坂を選手がどう攻略していくのかが見どころだと思います。
湘南の海・富士山と箱根駅伝随一の景勝とも言われる3区・8区ですが、走っている時は周りの景色を見る余裕があったり、沿道の歓声ははっきりと聞こえたりするのでしょうか
竹崎 3区・8区は沿道で応援してくださる方が多いのですが、前方をみることに集中していたので、実は周りの景色は全然見えておらず、家族や友人の姿も分かっていません。ただ、浜須賀中の現役陸上部員だと思うのですが、サザンビーチ付近で“竹崎先輩頑張れ”と書かれた横断幕を掲げてくれたことには気付き、それがとても力を与えてくれたことを覚えています。
沿道の歓声も耳には届いているのですが、チームメイトの声を聞き逃さないようにするので精一杯だった覚えがあります。一方で「中継車でレポートしているアナウンサーの声が聞こえた」という選手もいたようです。
第77回大会では区間賞を惜しくも2秒差で逃しましたが、トップで4区の選手にタスキリレーし、法政大学が45年ぶりの総合4位を勝ち取る牽引役となったそうですね
竹崎 4年生の第77回大会の往路では向かい風が強く吹く選手には厳しい大会となりました。3区・8区の国道134号は海からの風の影響を大きく受けます。実際まったく前に進んでいる気がしませんでした。ただ、私は他の選手より体格が大きかったので、向かい風に負けない力強い走りができたことが好記録に繋がったのではないかと思っています。
念入りに準備をしてレースに望まれていたと思うのですが、当日の朝はどのように過ごしていたのでしょうか。
竹崎 遅くともスタートする6時間前には起床していました。これはどの大学もだいたい同じだったのではないでしょうか。例えば1区にエントリーされると8時のスタートに合わせて2時には起床。ベストコンディションで当日を迎えられるように1週間前から当日と同じタイムスケジュールで過ごして生活時間を合わせていた選手もいたと聞きます。私が走った3区・8区では10時ころにスタートすることになるので、朝4時には起床して朝食は3時間前には済ませて中継所へと向かっていました。
ユニフォームやシューズは思い出の品として今でも大切に保管されているのでしょうか
竹崎 実は写真もユニフォームも残っていません。もしかしたら、ユニフォームは実家のどこかにあるのかもしれませんが…。ただ、シューズだけは走り終えたそのままの状態で手元にあります。想いが詰まったシューズだけはどうしても処分できませんでした。
シューズといえば、機能性に優れた厚底シューズを履く選手が箱根駅伝でも増えています。当時、私が履いていたシューズは“軽さ”“薄さ”が追求されたものになっていて、改めて見るとシューズも大きく変化していることが分かります。
大学を卒業されてからも箱根駅伝を観戦されているのでしょうか
竹崎 大学卒業後は何度か応援に駆けつけていましたが、専らテレビ観戦です。学生時代は箱根駅伝が終わらないとお正月を迎えられませんでしたが、今はお正月気分に浸りながら後輩や他の大学の選手たちを応援しています。
走ることは学生時代で一区切りをつけましたが、今でも機会があれば走っています。走るとついついタイムを意識してしまうのですが、怪我をしないように気を付けながら楽しむようにしています。今後は走ることだけでなく、トライアスロンに挑戦してみたいと思っています。