市北部に位置する地区「遠藤(えんどう)」。近代を代表する民俗学者の柳田国男(1875―1962)は「遠藤という村はよくよく歴史とは因縁のない、無名の地であったという感じを深くする」と述べている。
だが、その地名にちなんだ逸話がある。平安時代末期の僧・文覚(もんがく)上人の俗名「遠藤武者盛遠(えんどうむしゃもりとお)」の領地であり、由来になったという説が、明治時代の史料「皇国地誌」に記載されている。
遠藤に住む内田和枝さんの宅内には、「遠藤武者盛遠供養碑」が設置されている。明治時代初期に内田重左衛門・一次父子が建立。その後荒廃したが、一次の子の久吉が1977年に再建した。
「コロナ禍以前は見学に訪れる人も多く、遠くから来る人や、団体で来る場合もあった」と和枝さんは話す。過去に訪れた一人で、横浜在住の歴史作家・相原精次さんは、源頼朝に挙兵を促し、平家や後鳥羽上皇などの権力者に抗い続けた文覚を「偉大な革命家」と表現する。その生涯は小説や大河ドラマなどでも注目されている。
その一つが芥川龍之介の小説「袈裟(けさ)と盛遠」。題材は、武士として朝廷に仕えていた盛遠がいとこの源渡(わたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し殺してしまったという事件だ。これにより盛遠は出家し文覚を名乗ったと江島神社の杉本直大さんは解説する。
江島神社には文覚が頼朝の命で寄進した八臂(はっぴ)弁財天像が保管されている。また岩屋に参籠し21日間の祈願に打ち込むなど、「江の島がゆかりの地であることがわかる」と杉本さん。
藤沢の南北の地にゆかりのある文覚。「後世に伝えていかなければ、伝承は途絶えてしまうのではないか」と和枝さんは危惧する。夫の充也さんは生前、見学に来た人の案内をしていたという。「盛遠は今もこの地を見守ってくれている。私にはわからないことも多いが、これからも保存していきたい」と語った。