「辻堂」の名称は1335年の史料「足利尊氏関東下向会議次第」が初出とされ、北条時行が起こした中先代の乱の戦場として登場する。それ以前は「八松(やまつ)が原(八的(やまと)ヶ原)」と呼ばれ、現在の呼称が成立したのは13世紀前後と推定されるが、定かではない。
由来としては、宝泉寺、宝珠寺、阿弥陀堂という3つの御堂と、それらの近くにある3つの辻が説として挙げられる。いずれも辻堂駅南口の元町にあり、その1つである宝泉寺は江戸時代の人気の地であったとされる。同寺の塩澤明弘さん(40)は、「『光明真言道場』と呼ばれ、大山詣の際などには立ち寄らないと縁起が悪いとされていた」と説明する。「北の寺」として知られる宝珠寺や、保元年間(1156〜58年)建立とされる阿弥陀堂も含め、人々の信仰を集める地として賑わったという。
阿弥陀堂は、辻堂最古の道とされる上村道と、鎌倉街道の交差点に位置していた。郷土歴史家の櫻井豊さんは自著「辻堂歴史物語」の中でこの御堂が地名の発祥ではないかと推測する。
「辻」は古道の整備と関係している。「この地は元々沼地と砂地。そこに道ができ、周りに集落を形成したのでは」と、辻堂まちづくり会議の吉田秀樹さん(66)は話す。平安時代末期、この地は「吉田」や「櫻井」を含めた17の氏族が開拓したとされる。そのルーツは、平家の落人説があるほか、櫻井さんは研究の中で村岡に拠点を持つ鎌倉権五郎景政の送り込んだ人々であるという説を提唱する。
半農半漁の集落として継承される一方、明治以降には旧日本軍の演習場も設置され、兵隊宿としても栄えた。現在も多くの謎や伝説が残る辻堂の歴史。「17氏族の末裔たちとしても調査していくが、その他にも辻堂に興味のある方がいれば、ぜひ共に研究し、解明していきたい」と吉田さんは語った。