羽沢南町内会の概要<歴史・寺社・はざわっ子検定>【横浜市神奈川区・羽沢南町内会】

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羽沢南町内会の概要<歴史・寺社・はざわっ子検定>【横浜市神奈川区・羽沢南町内会】

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◆羽沢南の歴史
◆羽沢の寺社、記念碑等
◆はざわっ子検定

羽沢南の歴史(その1)先土器時代~中世

「羽沢南」は、2006年(平成18)10月23日、「羽沢町」南部地域の住居表示変更により、「羽沢町」から分離・新設された新しい町である。従って、「羽沢南」の歴史について語る場合には、当然のことながら「羽沢町」/「羽沢」について触れなければならない。

1.先土器時代の「羽沢」

「羽沢」は、多摩丘陵の東南端に近く、下末吉台地が南に張り出したところに位置している。太古の昔からこの羽沢の地には人々の生活があり、「東泉寺」近くの畑から「東泉寺遺跡」と呼ばれる先土器時代の遺跡が発見されている。約10,000年前の遺跡とみられ、神奈川区内最古の遺跡である。

また、羽沢小学校近くの富士塚の周辺からは、平成元年に縄文晩期の竪穴式住居跡が発掘されている。住居の入り口には獣の侵入防止のための穴があり、今から約2500年前頃の住居跡と見られている。農耕が始まる前、この羽沢の地は針葉樹林で覆われ、獣を追い、木の実を採る人々の住み易い大地であったと思われる。

しかし、「羽沢」は、この時代から永く空白期が続く。羽沢は台地で大きな川がなく、また人口も少なく、鶴見川流域には稲作に適した土地が拡がっていることから、羽沢から鶴見川流域へ人々が移動したためと思われる。

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2.古代の「羽沢」

江戸時代中期の文化・文政期に編纂された『新編武蔵風土記稿(しんぺん むさしふどき こう)』によると、「羽沢村は郡の西南にあり、村名の起こる所及び郷名を伝えず、是も小机庄に属する地なり」とある。そして、明治初年までこの地は「武蔵国橘樹郡(むさしのくに たちばなぐん)羽沢村」と言われていた。

「橘樹(たちばな)」という地名は、『日本書紀』の安閑(あんかん)天皇元年(534)の条に、武蔵国造(むさしの くにのみやっこ)の地位継承権を巡る争いについて記されており、その中で武蔵国造として認知された笠原直使主(かさはらのあたい の おみ)が、そのお礼として「橘花(たちばな)」を含む4カ所の屯倉(みやけ)を献上したと記されている。「橘花の屯倉」は現在の川崎市住吉、横浜市日吉付近にあったとされているが、羽沢に直接かかわる史実は残されていない。

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3.中世の「羽沢」

羽沢については引き続き永い空白期が続き、史書にその名を見ることはない。ただし、横浜市制100年を記念して発行された『横浜の歴史』には、鎌倉時代、南北朝時代及び戦国時代の3枚の市域復元図が載っているが、鎌倉時代の復元図には小机、鳥山は載っているものの羽沢の名はなく、戦国時代の復元図になって初めて「羽沢村」の名が記載されている。「羽沢村」が村規模の集落に成長したのは、戦国時代直前の頃であったと推定される。

なお、羽沢小学校近くの富士塚の前に「硯松(すずりまつ)」の碑があるが、これは江戸城を築いた太田道灌(おおた どうかん)の故事にちなんだ碑である。太田道灌は、関東菅領・山内上杉家の内紛に絡み、長尾景春(ながお かげはる)に味方した小机城主・矢野兵庫(やの ひょうご)を攻める途中、羽沢のこの地の松の下で矢立(硯箱)を取り出し、「小机は先ず手習いの始めにて、いろはにほへとちりじりになる」という一句をしたため、心身ともに傷ついた部下を励ましたと言われている。1478年(文明10)の出来事である。

※以降、原稿随時追加

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羽沢の寺社、記念碑等

照光山平本院青蓮寺(しょうこうざん ひらもといん しょうれんじ):(羽沢町762)

高野山真言宗。開山・開基は不詳。寺の明細帳には、開山を祐秀上人(1599年(慶長4)2月10日死去)であったとあり、過去帳には「開山法印隆全、1504年(永正元)創立」とある。『新編武蔵風土記稿』には「開基は村の里長(さとおさ)・喜兵衛が先祖なり。法号を平本院と言い、卒年を伝えず。彼が氏を平本と言う。故にそれを法号とし、また寺の院号にも用ひしとなり。開山の僧及び年歴を伝えず。」とある。本尊は如意輪観世音菩薩坐像。

広厳山成願院東泉寺(こうげんざん じょうがんいん とうせんじ):(羽沢町1635)

高野山真言宗。寺伝によれば開山は賢継といい、1465年(寛正6)死去。『新編武蔵風土記稿』には「開山を継円という。示寂せし年代は其の伝え失いたれど、第5世の住僧の寂年を寛永年中(1624年~1644年)といえば開山の時代も旧きこと知べし。」とあり、鳥山町にある三会寺(さんねじ)の隠居寺と思われるが、明治初年の火災によって全てを焼失したため、定かな沿革を知ることができない。本尊は薬師如来立像。

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神明社:(羽沢町917)

由緒は不詳。祭神は天照皇大神。延宝年間(1673~1681年)、酒井河内守が当社を所領した際、社地を免除したという。明治維新前は、青蓮寺と東泉寺が別当をしていた。1873年(明治6)、村社に列せられ、1916年(大正5)、村内の杉山神社(聖典)、蔵王権現(具行)、熊野神社(羽沢村)、杉山神社(綿打)の4社を合祀した。例大祭は9月16日。

硯松(すずりまつ):(羽沢町993)

羽沢小学校近くの富士塚の前に「硯松」の碑がある。これは江戸城を築いた太田道灌(おおた どうかん)の故事にちなんだ碑で、関東菅領・山内上杉家の内紛に絡み、長尾景春(ながお かげはる)に味方した小机城主・矢野兵庫(やの ひょうご)を攻める途中、羽沢のこの地の松の下で矢立(硯箱)を取り出し、「小机は先ず手習いの始めにて、いろはにほへとちりじりになる」という一句をしたため、心身ともに傷ついた部下を励ましたと言われている。1478年(文明13)の出来事と言われ、当時、銘木と言われた硯松も三度の植えなおしを経て現存していたが、近年枯れてしまったため、代替わりして小さくなっている。

富士塚:(羽沢町1000)

富士山信仰は古代から日本各地でその形跡が見られるが、戦国時代より特にその傾向が強まり、各地で信者の団体である「富士浅間講」が作られ、白装束に鈴を鳴らし「六根清浄(ろっこん しょうじょう」と唱えながら富士山に参拝した。特に、1707年(宝永4)の富士山大噴火は各地に大きな被害をもたらし、再び大噴火が起こらないように富士山を鎮めようと、各地に富士塚を築き、富士山の浅間大神を祀る動きが起こる。この富士塚もその一つである。羽沢の富士塚がいつできたかは不明であるが、頂上には石塔が二つあり、一つは字が消えて不明であるが、もう一つには「浅間大神(明治29年)」とある。また塚の麓にある「仙元大講」の碑は、1869年(慶応2)に建てられている。

釈迦堂(羽沢町1064)

横浜港の埋め立て事業を進め、横浜港の発展に寄与した高島嘉右衛門の番頭を明治後期に務めていた餅田家の家墓。墓地としては江戸中期よりあったと言われている。本尊として、日蓮上人の祖師像と、釈迦如来・多宝如来が安置されており、現在は、宗教法人・盛圓寺の管理に委ねられている。

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はざわっ子検定

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住所

神奈川県横浜市

公開日:2024-06-24

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