脚本家の三谷幸喜氏が手掛け、俳優の小栗旬さんが主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。9日(日)から放送がスタートするこの作品に、保土ケ谷区内に所縁のある武将「和田義盛」が登場する。演じるのは、数々のミュージカルやドラマで活躍する、俳優の横田栄司さん。区内には義盛ゆかりの地名や伝説が残されている。
和田義盛は、相模国三浦郡(現在の横須賀市衣笠町)の衣笠城を本拠地としていた一族「三浦氏」の庶流「和田氏」を出身とする武将。1180(治承4)年に源頼朝が平家打倒で挙兵した際に頼朝を支え、現在の軍事や警察にあたる「侍所」の初代別当(長官)に就任した人物だ。
同ドラマのタイトルにある『13人』とは、源頼朝の死後、鎌倉幕府の集団指導体制として有力な御家人たちで組織された「十三人の合議制」の構成員のことで、義盛もこれに含まれる。主演の小栗さんは13人の勢力争いを勝ち抜いた、北条義時を演じる。
「和田町」の由来に
和田の真福寺の境内地にある「和田稲荷大明神」の聖堂には、稲荷の縁起が刻まれている。治承年中(1170〜1180年)、義盛が平家打倒をめざす頼朝についてこの地に宿を取ったときのこと。義盛の夢に観音様が現れて「お稲荷様を信じれば、必ず悲願が成就する」と告げた。義盛が夢のことを話すと、頼朝は喜んで土地を与えた。義盛は堂を建立し、夢に出た観音様の姿を刻ませてご本尊として安置したのだという。
しかし当時、この稲荷に「和田」の名前はついていなかった。
平家を倒し、鎌倉幕府の初代征夷大将軍になった頼朝は1193(建久4)年の春、狩りに向かう途中で再びこの地を訪れる。同稲荷を参拝した頼朝は、義盛の「和田」の名を冠し「和田稲荷」と命名。その後、この稲荷が由来となって周辺の地域が「和田」と呼ばれるようになったのだ。
また、市内唯一の渓谷として知られる「陣ケ下渓谷」も、義盛が狩りに出た時に渓谷の上流部分に陣を張ったことが由来であるといった伝承が残されている。
歴史の足跡区内に多数
ドラマで描かれる鎌倉時代の痕跡は、区内各所で見つかる。「釜壇山」の伝説もその一つだ。
上星川駅北口を出て、貨物線の高架下に沿い16号を渡ると見えてくるのが「釜壇山隧道」。和田稲荷が命名されたのと同じ頃、釜壇山で休憩をした頼朝は、東光寺の井戸から汲んだ水を、ここにあった「釜壇石」と呼ばれる丸い凹みのある石に入れて茶をたてた。そのお茶が美味しかったので、麓を流れる帷子川に向けてお礼の矢を射た。矢は川を越えてぐんぐん飛び、現在の坂本町や仏向町のあたりに。矢の刺さった場所から竹が生え「矢シ塚」などの地名がうまれたという。
また、この釜壇山は「釜台」の由来になったとも伝えられている。
政子の井戸
鎌倉に幕府ができると、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が整備された。国道1号から横浜清風高校へ向かう「かなざわかまくら道」の途中には、政子の井戸とも呼ばれる「御所台の井戸」がある。頼朝の妻・北条政子がこの井戸の水を化粧に使ったという言い伝えがあり、一説にはこの一帯が政子の領地だったのではないかと考えられている。
保土ケ谷は「通過地点」
頼朝に仕えて軍の先鋒を務め、後に二俣川の鶴ケ峰付近で非業の死を遂げる「畠山重忠」の史跡も、旭区内を中心に数多く残されている。
常盤公園にある畠山重忠の名が刻まれた碑は、頼朝の死後、鎌倉に向かう道中に鶴ケ峰で討ち死にした際にこの場まで逃げてきた家来の一部を慰霊するものである。
「保土ケ谷は江戸方面から鎌倉へ向かう通過点であったため、このような伝説が数多く残されているのでは」と話すのは保土ケ谷ガイドの会の麻生民次会長。ドラマと照らし合わせながら、地域に残る歴史のあしあとを今一度辿ってみるのも、良い機会かもしれない。