市西南部に位置する「羽鳥(はとり)」は、古くは「服部」と書いた。藤沢地名の会によると、服部は、飛鳥時代に織物を作る「はとりべ」と称する一族とされる。
「服部たちは、川の水を使って機織りをするために住んでいた」と明治郷土史料室運営委員長の磯崎三郎さんは説明する。なぜ羽鳥と書かれるようになったかは、「3羽のツルが関係している」という。
明治時代初期の史料「皇国地誌」によると、1615年に三觜(みつはし)八郎右衛門が、3羽のツルが遊んでいるのを見かけたことからこの地に住み、羽鳥と名付けたという。
三觜家は江戸時代から1871年まで羽鳥村の名主を務めた。翌72年には第13代当主・佐次郎が、元内閣総理大臣の吉田茂などを輩出する「耕余塾」の元となる学校を設立する。三觜家は長きにわたり羽鳥の発展に貢献した。
一方で、三觜家の羽鳥居住については南北朝時代を初めとする説もある。磯崎さんは「それでもツルが由来であることは間違いないと思う」と話す。羽鳥には「鶴蒔田(つるまいだ)」と呼ばれる地があることや、江戸時代には農民が藤沢宿の代官にツルの保護を求めたという記録もあるためだ。
北海道大学・久井貴世准教授によると、神奈川県でのツルの生息は幕末の1866年まで確認できる。久井准教授は「田んぼの虫や刈り残しなどを食べながら冬を越すには、雪があまり積もらない南関東が適している」と説明し、「開発が進み、ツルが南下できなくなるまでは来ていたのでは」と予想する。
「昔はシラサギやマガモがたくさんいた」と語るのは、羽鳥本村町内会長の三觜清次さん(93)だ。三觜さんは戦時中、シラサギの群れで農地が一面真っ白になるのを見たという。多様な動物が生息していた土地の記憶は、今でも住民たちの間で引き継がれている。