今年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。江戸幕府を開いた徳川家康ゆかりの場所がフューチャーされる中、藤沢市でも家康ゆかりの場所があるんです。それは、東海道五十三次の藤沢宿が設置される前の慶長元(1596)年には存在していたと推察される「藤沢御殿」です。どんな場所だったのか、取材しました。
藤沢橋から西に徒歩10分ほど、国道467号線から1本道を隔てた住宅地の一角には空き地が広がっています。元々は藤沢公民館があった場所ですが、かつてこの場所を含む一帯に藤沢御殿が築かれていたといいます。
元禄11(1698)年に作成された「藤沢御殿跡絵図」によると藤沢御殿は、東西86間(約156m)、南北39間(約70m)。敷地面積は約1.1haで、サッカーのグラウンド約1.5個分に相当します。市郷土歴史課によると2000年8月、共同住宅を建設しようと調査をしたところ、地面に溝を確認。さらに深く調査したところ御殿西側の堀の一部と考えられることが分かりました。
藤沢御殿は、どのような機能を持つ施設だったのでしょうか。
御殿とは、家康が上洛の際に使用する目的で築かれた宿泊施設を指します。江戸初期の見聞集『慶長記』には慶長5(1600)年6月に藤沢に滞在し、鎌倉を遊覧した記録が残っています。また、同年9月には関ケ原の戦いの際にも立ち寄った記録があります。藤沢市の歴史研究家、平野雅道さんによると、家康から3代将軍・家光の時代まで計28回利用されたとのことです。
しかし、参勤交代が始まり将軍が上洛しなくなると御殿の重要度は低くなり、次第に利用頻度も減っていきました。藤沢御殿が廃止された時期は不明ですが、市郷土歴史課によると、寛永11(1634)年に家光が宿泊したのが最後の記録とされています。その後江戸で発生した明暦の大火(1657年)に伴い、御殿の建材は復興に充てられたといいます。
現在の場所は、建物の痕跡はほとんど残されていません。しかし、藤沢御殿があった藤沢1丁目周辺には「御殿辺」「御殿橋」「陣屋小路」「陣屋橋」など、藤沢御殿とゆかりのある地名が残っています。市郷土歴史課は「家康が江の島を訪れ、休憩したという記録もあります。かつて家康が目にしたであろう景色に思いをはせてみては」と話していました。