日本有数のビーチタウンとして知られる湘南・茅ヶ崎。茅ヶ崎の光景を思い浮かべたとき、”サーフィン”を連想する方も多いのではないでしょうか。茅ヶ崎のイメージを象徴するサーフィンと茅ヶ崎の関わりについて、市内在住のJPSA公認プロサーファー・牧野 拓滋(まきの たくじ)さんにお話を伺いました。
ビーチタウン・茅ヶ崎とサーフィンの歴史を紐解く
サーフボードを手に海岸へ急ぐサーファー、沖合にある”えぼし岩”、海沿いの国道134号付近に軒を並べるサーフショップの数々。
こうした光景を茅ヶ崎の日常シーンとして思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。日本有数のビーチタウン・茅ヶ崎にとって街のイメージを象徴する“サーフィン”は欠かすことができないものに違いありません。
茅ヶ崎とサーフィンの歴史について、市内在住でサーフィンに関する書籍も数多く執筆するJPSA公認プロサーファーの牧野 拓滋さんにお話を伺ってきました。
1927年、茅ヶ崎に初めてサーフボードを持ち込んだ新田町長
「茅ヶ崎に初めてサーフボードが登場したのは1927年(昭和2年)、今から約100年前になります。当時の茅ヶ崎町長・新田 信さんが欧米視察の帰り道で寄ったハワイでサーフボードに注目し、2枚のチーク材のサーフボードをハワイから取り寄せたことが始まりとなりました」と、牧野さんは当時の横浜貿易新報の記事を示してくれました。
横浜貿易新報には
“これは今年茅ヶ崎海水浴場で初めて使用する波乗板新田町長の視察からハワイで見たものを取寄せたもので材はチークで二枚到着これから澤山造って浴客に使用させる。
(横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)昭和2年6月30日)”
とともにサーフボードを手にした男性の写真が掲載されています。
「茅ヶ崎の海水浴場は日本初と言われる大磯・海水浴黎明期に設置された鵠沼よりも後に開設されたこともあって、海水浴の誘客に悩んでいたようです。新田町長は茅ヶ崎の海水浴場の海開きを盛り上げようと、町費を使って無料更衣所やオランダ籠やベンチなどの設備など整えようとしており、サーフボードの導入もそのひとつだったようです。茅ヶ崎の海は近隣に比べると少し波が荒かったそうで、水泳の練習にあまり向いていませんでした。それを逆手にとり、『サーフボードを使って、茅ヶ崎海水浴場を波乗りの名所にしよう』と考えていたのではないでしょうか」
また、「新田町長以外にもサーフィンに注目した方がいました」と牧野さん。「茅ヶ崎のサーフィンの歴史を振り返ると、茅ヶ崎館も重要な役割を果たしていたと思います」。サザンビーチちがさきに程近い場所にある老舗旅館の茅ヶ崎館には新田町長が取り入れたものと思われるサーフボードが今も残され、展示されています。
「1899年(明治32年)に開業した茅ヶ崎館の初代館主の森信次郎さんはとてもアイディアマンであり、茅ヶ崎海水浴場の花火大会の開催に尽力をしていた人物でもあります。2代目館主の信行さんは茅ヶ崎で最初に自動車を手に入れたと言われる方で、新しいものが好きで好奇心も旺盛だったそうです。茅ヶ崎館でもサーフボードを使って、海水浴場を盛り上げようとしていたに違いありません」
順調にサーフィン文化が定着したわけではなかった
新田町長や森さんらが茅ヶ崎でサーフィンの定着を積極的に目指していたようですが、すぐにサーフィンが茅ヶ崎に根付いたわけではなかったようです。
牧野さんはその理由を「茅ヶ崎とワイキキの地形の違いにあったのでは」と言います。
「サーフィンの発祥であるワイキキの海底はサンゴ礁と岩場からできており、ゆっくりと崩れる形の良い波が特徴になっています。一方、茅ヶ崎は河口から流れる砂が海底に堆積しており、波は急峻で崩れ方も早くなってしまいます。当時の重くて大きいサーフボードはハワイの波には適していましたが、茅ヶ崎の波とは相性が良くなかったはずです」
さらに、「茅ヶ崎では当時は板の上に腹ばいになって波乗りをする板子乗りが行われていましたが、ボードの上に立つスタイルはなかったようです。サーフボードは伝わりましたが、ボードの上に立つサーフィンの技術を教えられるサーファーがまだいなかったこともあって、新田町長が期待したほどすぐにサーフィンの定着は見られなかったようです」
戦後、再びサーフィンにスポットが当たる
1940年代に戦争がはじまるとサーフィンも静かに忘れられていたそうですが、戦後、米軍の駐留により再びサーフボードが茅ヶ崎に持ち込まれることとなりました。
「戦前、新田町長らが取り入れたサーフボードは重量が40㎏と大きくて重いものでしたが、戦後のボードは素材や形状も進化を遂げており、重さは半分程度、大きさもコンパクトになり格段に扱いやすくなりました。サーフボードの進化によって茅ヶ崎の波でもサーフィンを楽しみやすくなったこと、戦前ではあまり見られなかった実際にサーフィンを楽しむサーファーの姿を目の当たりにしたことで、若い世代を中心に多くの人がサーフィンに惹かれ、サーフィンがどんどん広がっていくこととなりました」
「1970年代になると、湘南にはたくさんのサーフショップが開店していきました。茅ヶ崎では日本初のサーフィン用のウェットスーツ『ビクトリー』が登場しました。『ビクトリー』は当時、黒色が主流だったウェットスーツを改良し、カラフルなデザインを取り入れたことで世界中のサーファーから愛され、サーフカルチャーの発展に大きく寄与することになりました。サーフポイントとしてだけでなく、サーフィン産業も盛んになっていったことで、茅ヶ崎が日本有数のビーチタウンやサーフィンの聖地としてイメージが定着していったのでしょう」
老舗サーフショップのオーナー:藤沢譲二さん
2024年の茅ヶ崎はサーフィンに注目。松田選手がオリンピックに出場、ホノルルとの姉妹都市は10周年
サーフィンカルチャーが定着した茅ヶ崎からは大勢のプロサーファーが誕生しています。
2024年のパリオリンピックには茅ヶ崎市のスポーツアンバサダーにもなっている松田詩野選手が出場予定で、世界を舞台に大きな活躍が期待されています。
さらに、ハワイからサーフボードが伝わったこと、サーフィンを通じて茅ヶ崎とハワイのサーファーの交流が活発であったことが大きな後押しとなり、2014年10月には茅ヶ崎市とホノルル市・郡で姉妹都市友好協定が締結されました。2024年は協定締結10周年の記念イヤーとなり、サーフィンに留まらず、茅ヶ崎とホノルルの交流もさらに深まっていくに違いありません。
サーフィンは茅ヶ崎のオープンマインドの原点
「サーフボードを茅ヶ崎に取り入れた新田町長や森さんがそうであったように、茅ヶ崎の人には “何か新しいものを取り入れよう”“楽しいことをみんなで共有しよう”という気質が昔からあったのかもしれません。そうした気質が、今日まで引き継がれて、茅ヶ崎に住んでいる人のオープンマインドに繋がっているのではないでしょうか」と牧野さん。
2023年の1年間の人の移動をまとめた総務省の『住民基本台帳人口移動報告』によると、茅ヶ崎への転入超過数は東京都特別区部と政令指定都市を除いた一般市町村の中で全国1位となっており、茅ヶ崎は移住先に選ばれている街と言えます。移住者が増えている要因は様々あるのでしょうが、移住された方々からは「茅ヶ崎の人は人柄があったかい」「移住者でもすぐに受け入れてくれる開放的な人柄を感じる」との声をたびたび聞くことができます。
脈々と受け継がれてきたサーフィンカルチャーとともに、開放的な人柄・どこか楽し気な街の空気感が茅ヶ崎の大きな魅力になっているのではないでしょうか。
茅ヶ崎市は子育て世代に人気のまち